アニメ独自の表現について

今期アニメ感想


昨日の記事ではあまり説得力がないと思うので、もう少し根拠を書いて補足してみます。そんな大袈裟な話でもないのですが、アニメ固有の要素を潰してもったいないな、と感じることがよくあるので、そこら辺をうだうだ書いてみます。

アニメ固有の表現を考える

涼宮ハルヒの憂鬱」の第一話に好意的なのは、まあ劇中劇の自主制作ネタで素人いじりという、そんな高尚な題材ではないんだけれど、(ただの映像繋がりではあるが)アニメの利点を生かした表現だというのがあります。マンガではあのライブ感は無理でしょう。ゲームなら動画は取り込めます。が、あれをそのままダラダラ流したら、操作させろと不満が溜まりますし、例えばノベル型で選択肢が出てくるとしたら、あの画面では繰り返しやってられなくなります。


対して「吉永さん家のガーゴイル」は、動かないものを主人公に持ってくるなら、例えばマンガの方が向いてるとまず思ってしまいます。あと若本の語りの力に頼りすぎている。じゃ、「つよきす」の土永や「ニニンがシノブ伝」の音速丸はどうかというと、両方とも脇役で、土永は館長と同じ声で父性のパロディのように使ってるし、音速丸はよく動いてしかもボール型と筋肉型にトランスフォームします。もう少しひねりがある。

表現における内容と形式

技術的な貧しさを逆手に取る

ところでハルヒの劇中劇の自主制作の表現はどれも陳腐なのですが、その陳腐さはただ技術力が低いというだけではなくて、内容と形式が分離してしまっていて、その解離に自覚的でないということです。いくら表現「したい」お題目を並べても、それが実際の表現から感じられなければ空疎です。逆に内容と形式の関係に敏感であれば、技術的な制約を逆手に取った表現ができます。どういうことか。


端的には、昔のSTGで処理落ちして弾が遅くなるんだけど、それがかえってゲームバランスの調整になっているし、弾幕で処理落ちする様子がまるでジョン・ウーのスローモーションのような演出(大袈裟)になっているというようなことです。それは作画枚数を切り詰めたリミテッドアニメで、独自の表現に昇華するのと同じだと思うわけです。


あるいは、やるドラの『ダブルキャスト』は、マルチエンディングなのでバッドエンドも描ける、というゲームの利点を活かしていました。一本道のアニメではあんまりヒロインを壊せないでしょう。もう少し言うと、多重人格という話の内容と、多重の選択肢というゲームの形式が一致しているのも強みです。そして、真のダブルキャストとは、主人公とプレイヤーという多重人格の方です。

バイオハザードの例

もう一つゲームの成功例を書くと、「バイオハザード」はかなり自覚的に形式を利用していると思います。プレイステーションの初期の頃は、ポリゴンは荒くて見れたもんじゃないし、3Dの操作系には慣れないし、読み込みは遅くてイライラするし、三重苦でした。しかしバイオはそれを逆手に取っている。ISRのRの活用です。どういうことか。


初期バイオは荒いポリゴンでゾンビの細部が見えないんですが、それがかえって怖い訳です。それから3Dの操作系に慣れないせいで、のろいゾンビに襲われる理不尽さも、悪夢で足がもつれて走れないようなもどかしさを感じさせます。弾幕化したSTGとは逆に、全員やっつけるには弾が不足しているという状況も斬新でした。そして部屋を移動するときに読み込みがあるけれども、ゾンビがいるかもしれないという不安があるから緊張感は続きます。これがコメディとかのジャンルだったらテンションが冷めて失敗するでしょう。


最初のバイオは、ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のような不条理感を感じましたが、続編のバイオは、ハリウッド的な化け物が出てくる派手なガンアクションで、どんなに画面が精細でも全然怖くない。まあ慣れが大きいでしょうけどね。あと内容と形式の話では、稲葉振一郎FF7論がありますが、今はアニメ論なので後でRPGを扱うときに触れましょう。少し寄り道しましたが、アニメに戻ります。

アニメにおける内容と形式

宮崎駿の場合

例えば宮崎駿の『もののけ姫』の凄さはどこら辺にあるのでしょうか。宮崎アニメといえば空を飛ぶシーンで、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『紅の豚』などいずれも飛行シーンが出てきます。しかし、もののけ姫では得意の空を飛ぶカタルシスをあえて禁欲しています。それは俯瞰的な視点を取れないポストモダンの状況と通底しているので説得力があります。徹底的に地を這う獣の怨念が、九十年代の閉塞感とエヴァのようにシンクロしていました。


しかし残念なことに、獣がベラベラ喋ることで、しかも声優が芸能人だったりして、途端に分かりやすい話になってしまいます。「ああ人間と自然との共存は難しいもんだね」とか。トトロも、ナウシカのオームも、ラピュタのロボットも、もちろんエヴァも、喋らなかった。内容としては抑圧された他者を描こうとしているのに、形式のレベルでは対等に喋れます。サバルタンが語れるかというような話でしょうか(この辺の話は「偽日記」の古谷利裕の指摘の受け売りです)。

高畑勲の場合

喋るシーンをもう一つ挙げると、もののけの後に上映された盟友の高畑勲による『となりの山田くん』があります。全体的にはあんまり面白くなかったんですが、冒頭の海に船を漕ぎ出すシーンは見ものです。あの部分のアニメーションは本当に生命を感じました。ところがここでミヤコ蝶々の説教が被っています。有名人を出したいのは分かるけど、何もあの見せ場にしなくても。


もう一つ見せ場があって、後の方でDQN(不良)のバイクがうるさくて父親(後で家族)が注意しに行くという場面で、いままでほのぼの水彩風だったのがちょっと線が変わります。ひぐらしの「嘘だっ!」ほど衝撃的ではないですが、四コマ的日常の予定調和にはない出来事が起こります。つまり、ドラえもんで言えば劇場編(大長編)ならではのドラマに相当するでしょうか。ひぐらしもそうですが、それまでの安定した日常を崩壊させるというモチーフは、四コママンガ・30分アニメ一回では上手く描けないものです。


このアニメは基本的に日本人の中流幻想みたいなナルシシズムをここまで温存してきたのですが、父性を示せない情けなさという亀裂が走ります。ジジェクが言う、主体が知ってはいけない、それを知ってしまうと整合性が崩壊するような何か(大袈裟)です。つまり「王様は裸」というか、男はつらいよの「それを言っちゃあおしまいよ」というところです。それに対して主人公の山田くんの父親がどう対応するのだろうと注目しました。


ところがここでまた説教です。山田くんの祖母が、DQN「正義の味方」になったらええんや、みたいなことを言います。確かにDQNは迷惑ですが、そんな嘘臭い事態の収拾の仕方では納得できません。四コママンガのリアリズムではもはや納得できない地点まで来ているのに、丸め込もうとしていて、その鈍感さに苛立ちます。いや、なにも北野映画のようにする必要は全くないですが、直接暴力を描かなくても、例えばひぐらしDQNのバイクを倒してしまうシーンでの(二重三重の)暴力性の描き方が勝っています。言ってることが間違っているかどうかということではなくて、わざわざ劇場版でやる必然性を感じませんでした。

あとがき

今回はFateひぐらしのアニメ化戦略の違いみたいな話にしようと思っていたのですが、いつの間にか脱線してしまいました。また内容と形式の関係を形式的にシステマチックに説明しようと考えていましたが、いつの間にか今さらな話をしてしまいました。つい言いたくなってしまう。言いたいことはさっさと言い尽くして、早く空っぽにしようと思います。回顧ではなく展望を語りたいものです。


あとたまたま見かけたのですが、これが関係ありそうな話ですね。
ブログ文章術 米光一成: 一文を短くって言うけどさ3

追記

誰がTVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」第1話を面白いと思ったか?


上で「理解が不十分と思われる」としているが、まず十分な理解が何なのかが分からなければ反論のしようもない。そこで、「自主制作8mmフィルム/ビデオを見たことがない人は、TVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」第1話を面白いと感じないのではないか? という仮説」に対してだけ、以下で異論を立てることにしよう。


「自主制作8mmフィルム/ビデオを見たことがない人」でも、「TVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」第1話を面白いと」感じることがありうるという仮説を立てる。それはなぜか。デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及によって、またそれを投稿したり閲覧したりできるサイトが普及したことで、プロでない者が撮影した映像を見る機会が増えている。もちろん正確には「8mmでの自主制作」というネタ(特に機材に関係するもの)を理解しているわけではないが、単に面白いと思うことには変わりない。また制作側がそこまで考慮に入れている可能性もあるだろう。


ちなみに、『愛國戰隊大日本』の面白さは、今回のハルヒ一話のそれとは異なっているので、自主制作を代表するクオリティの作品だろうが、それを見ていなければ分からないという程でもない。大日本は、アマチュア制作にも関わらず水準が高いという評判で、アニメ雑誌等に掲載されたのだから、ハルヒ一話とは逆のベクトルである。下はガイナックスによる解説。

タイトルやキャラクター名が表すとおり、右も左も等しく笑い飛ばしたパロディ的要素の強い怪作。
素人ばなれした爆発シーンや、巨大化怪人との戦闘など特撮も見所です。


ハルヒ一話は、演技・撮影・編集等の破綻によって、劇中劇の内容自体よりもそれを演じるキャラクターたちの人間関係などに興味が向かうようになっている。対して大日本の方は、恥ずかしいけど演技しているという自己言及の要素はない。皆ノリノリで演じている。もちろんショボイ演出・ネタの演出はあるが、その陳腐さは大衆が無意識に持っている善悪の図式の陳腐さのパロディとして機能している。