ポストモダン論(後)

前回までのあらすじ

神の時代から金の時代へ

前回は神の時代から金の時代へという話をしました。階層型の組織は、縦割りの弊害という奴で、変化に対応しにくい静的な構造になっています。そこで貨幣の交換によって外部を動的に取り込みます。これがクラインの壷ですが、難しく考える必要はありません。


外部の他者というのは、端的には商品を売る客であり、「お客さまは神様」だということです。つまり貨幣を通じて神はシステム全体に分散しているわけです。民主制の投票も主権の民衆への分散です。そして貨幣共同体の成員は、物を買う主人としての側面と物を売る奴隷としての側面に分裂しています。もちろん前近代でも聖性と汚穢は紙一重という両義性はありますが、それはあくまで特定の集団や一時的な祝祭に限定されていました。

ネットワーク的、データベース的

リゾーム=ネットワーク

いよいよ銘打っているポストモダン論のはじまりです。『構造と力』はツリーからクラインの壷への移行、つまり資本主義の必然性をとても正確に分析しています。しかし、ポストモダン・ポスト資本主義のビジョンとしての「リゾーム」については、いまだ展望に留まっている印象です。しかも浅田彰はそれ以降は理論的な著書を書かなくなります。そこで、構造と力を過去のものにしたと浅田に言わせた、東浩紀の登場になります。


構造と力―記号論を超えて 書籍
探究(1) (講談社学術文庫) 書籍
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて 書籍

郵便=ネットワーク

存在論的、郵便的』は、デリダの「郵便的脱構築」について考察したものです。その議論の道筋で、浅田の『構造と力』と柄谷の『探求I』が参照されます。画期的なデリダ論として現代思想関連で絶賛されたこの本は、では何が画期的だったのでしょうか。それを一言で言うと、「否定神学システム」からの脱却にあります。ここで否定神学クラインの壷や貨幣制度と同じ図式です。しかし、それではクラインの壷からリゾームへと説く浅田と同じことではないでしょうか。


東の考えでは、脱構築は「ゲーデル脱構築」と「デリダ脱構築」に分けられ、前者を否定神学のグループに分けます。そしてポストモダニストポスト構造主義者と呼ばれる思想家、特にデリダは、前者と後者を混同されて読まれてきたと指摘します。ハイデガー存在論フロイト精神分析を継承したデリダは、否定神学に対する抵抗の戦略を考えていて、それがラカン批判やあの独特の難解な文体になったというわけです。


否定神学への抵抗の戦略とは、具体的に何でしょうか。「郵便」「誤配」「散種」「暗号」「転移」「デッドストック」「タイムラグ」など色々キーワードが出てきて、それが例えばクリプキの固有名論のような哲学の系譜と交差していきます。しかし、ここでは最初に分かりやすくと宣言したので、深入りは避けます。最後に出てくる「フロイトのマジックメモ」にだけ注目します。これが「郵便」時代と「動物」時代の東を繋ぐ概念になります。つまりデータベースです。

データベース化するポストモダン

動ポモ要約

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
波状言論>情報自由論


存在論的、郵便的』の方が圧倒的に中身は濃いですが、難解に感じるかもしれません。『動物化するポストモダン』は平易に書かれています。また別の機会に取り上げると思いますが、ここで簡単に要約しておきます。


ポストモダン社会では近代的な大きな物語(ここでは、国民国家のような社会の大きなまとまりと共感の回路のこと)が凋落し、ポストモダン文化ではシミュラークル(オリジナルに対するコピーではなく、オリジナルから遊離したコピー)的な作品が台頭します。オタク文化で言えばコミケの二次創作が典型的ですが、オタクだけの話ではなく、DJのリミックスからコンビニ(のチェーン店とか)のようなものまで、広い話です。

データベース構造と動物的主体

しかしでは、リゾーム=ネットワーク的に無秩序にシミュラークルが増殖するのか、という問題提起です。これに対して東はネットワーク(シミュラークル)とデータベースの二層構造を提唱します。この「データベース」論は後に「情報自由論」など社会批評に対しても応用していきます。ところでデータベース化は構造の変化ですが、主体の変化としてはタイトルの「動物化」を挙げます。ここでは前者にだけ注目しましょう。


データベースの明示的な定義は本の中にないのですが、別の場所の発言から「確定記述の集積」という特徴を持つことが分かります。クリプキに「固有名は確定記述に還元できない」というテーゼがあるのですが、データベースは確定記述に還元してしまうシステムです。つまり、近代的な個、さらに近代的な作家・物語の、その特徴(萌え要素)だけがデータベースに断片的に登録されていくというわけです。つまり解体=構築(脱構築)です。

動ポモへの批判と再批判

これに対してオタクは、例えば唐沢俊一が、1. 表現の「お約束」を並べただけヒット作は生み出せない 2.「お約束」は昔からあり、データベース論は新しくない という批判をしています。しかしこれは的外れです。再批判を展開してみましょう。


1については、データベースさえ参照すれば誰でもヒット作を作れるなどとは、東は言っていない。意図してすらいない。例えば「データベースを押さえなければ、その作品は売れない」と解釈すると、その対偶は「その作品が売れているならば、データベースは押さえている」であって、「データベースを押さえれば、その作品が売れる」を意味してはいません。論理というか日本語の問題です。だから誤読です。


2については、メディアの進歩ということが踏まえられていません。シミュラークルは複製技術と切り離せません。ネットでコピペが流通したり、画像や音声を抽出してFLASHが作られたり、といったことはコンピュータが登場して可能になりました。それは昔はないものです。今まで一回性のものとされた絵や音楽が引用可能になった(『不過視なものの世界』での東の考え)、という変化を踏まえた上でのデータベース論です。だから粗雑です。


さらに付け加えると、データベースの要素を上から順番に並べて作品を作ってヒット作を狙うなどということは、端的に不可能でしょう。例えば猫耳などの要素が10個入った原始的データベースを想定しましょう。猫耳がついているか・いないかなどの二択で要素を取り出してキャラに付加するとして、2の10乗は1024通りです。実際にはもっと多く、1の批判はこの組合せ爆発をまるで考慮していない。お約束の反復だけでも差異を生み出すことができます。そしてその組合せの生成に2の再批判の(デジタル)メディア技術が出てきます。

議論の整理と新たな予告

物の時代

今回はポストモダンの図式として、ネットワーク・データベース図式を扱いました。前回は「神の時代から金の時代へ」という流れでしたが、今回は「物の時代」とでも言えそうです。ただしここでの「物」とは、高度に情報化した環境の中でのそれです。


じっさいnyでコンテンツを落とすニートウィニート)などは、資本の回路とは別の、情報の次元で結びついている(クラスタリング)わけです。あるいはVIPとかです。この無料の仮想空間はネット一般に言えると思います。しかしもちろん、はてなmixi2ちゃんねるなど多くの無料コンテンツは広告で回っているわけで、資本主義と無縁であるわけではありません。それでも、オープンソース運動などと関連して、一つの可能性を見出すことはできます。

予告

三回にわたって最初から最後まで要約に徹してきました。その方が需要があるかと思ったわけですが、次回はまた別の区切りで(長くなりすぎますし)、私独自のモデルを提出したいと思います。それはデータベース化しても動物化はしないというモデルになります。そしてそこで動ポモが見落とした『存在論的、郵便的』の可能性を拾い上げて、「集団知」のような最新の動きに繋げたいと思います。

図式一覧

前近代的階層型図式(ツリーモデル)


親→子→子→子→子→…



近代的循環型図式(クラインの壷モデル)


交換→貨幣→商品→交換

↑←←←←←←←←←↓


ポストモダン的分散集積型図式(ネットワーク・データベースモデル)


ネットワーク層 A・B A・C B・C…
データベース層 要素A・要素B・要素C…