ポストモダン論(中)

前回の要約

前近代的システムは木構造であるという話をしました。1対N構造は、今でも組織の一般的な形態です。係長の上に課長がいて、その上に部長がいて、その上に…とか、小学校の上に中学校があって、その上に高校があって、その上に…とか、よく見かけます。他にも(ユークリッドの頃の)公理系とか、一方向に展開する階層構造は普遍的に使われています。


この合理的に見えるシステムが、ポストモダンではなぜ解体するのでしょうか。察しのいい人ならInternetやWorldWideWebのようなメディアの発達を挙げるかもしれません。文字通りネットワークですから。しかし、コンピュータが登場してたかだか半世紀ちょっとです。それだけで社会・文化の変化を語るのは無理です。そこでその前に近代化の仕組みについて考えてみましょう。

クラインの壷

前置き

構造と力―記号論を超えて 書籍
『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)
浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない


『構造と力』における近代的システムの図式として有名なのは「クラインの壷」です。昔このモデルに対して山形浩生が批判しましたが(そして黒木玄が乗じましたが)、それにトポロジストの菊池和徳が再批判しました。私は後者の方が正しいと考えます。結局知の欺瞞は山形自身だったという話。(ただし、レッシグの翻訳等でオープンソースを広める山形の行動には生産性があり評価します)


しかし山形のような誤解が出るのは、ツリー図式(やリゾーム図式)に比べてクラインの壷が直感的に分かりにくいからでしょう。メビウスの輪の発展形で、昔のファミコンで言えば右の画面外に行くと左の画面外からキャラが出てくるというような感じなんですけどね。(もちろん違いますよ!)


そこで分かりやすい方の比喩を使います。前回の親子関係と木構造は両方似たような感じでしたが、今回は意図的にクラインの壷を避けて、貨幣−商品の関係に注目します。もちろん貨幣とクラインの壷は同じ図式ですが、金は天下の回り物ということは誰でも知っており、「貨幣はめぐらないのだ」という批判はないでしょう。

貨幣モデル

あらかじめ批判に対応するため前置きが長くなりましたが、本論はすぐに済みます。前近代が神の時代なら近代は金の時代です。社会・文化のシステムが親子関係に基づく木構造から貨幣モデルに移行したと捉えられます。例えば(間接)民主制は選挙による多数決で決定しますが、これも一種の市場であり、貨幣モデルで捉えられます。


親子関係と貨幣−商品関係の違いはなんでしょうか。それは静的か動的か、他者・外部に開かれているかという違いです。従来ではここら辺の話は難しくなりがちです。不可能性が云々。非決定性が云々。自己言及性が云々。いわゆる「ゲーデル不完全性定理」が云々とか。それに対してまたソーカルが云々とか言われて、面倒臭いことになります。しかしここではもっと簡単にいきます。

神と他者

貨幣論 (ちくま学芸文庫) 書籍


貨幣システムは木構造と似ているようで違います。それは貨幣と金銀、代表制と王制の違いに他なりません。いや金銀や王も実は、われわれが価値があるとして見るから価値を持つ、というトートロジーに支えられています。しかし、例えば紙幣という紙切れにすぎない、あるいは電子マネーという情報に過ぎない貨幣においては、その物象化の恣意性が更に明確になります。貨幣の実体は約束事でしかない。ただし偽札を排除する権力とその信用に支えられていますが。議論の詳細は上記の本に譲るとして、その変化が何をもたらすか考えます。


三波春夫の「お客様は神様だ」という名言(金言)があります。これを文字通り(額面通り)に受け取って考えてみましょう。前近代的な秩序の中心は神で、外部=他者は周縁に押しやられています。他民族が怪物伝説のモデルになるようなことです。しかし近代的な秩序は中心が空洞化していて、中心に欠如が来ます。なぜなら中心は神ではなく紙に過ぎない貨幣にとって変わったからです。それは約束事でしかないし、それを手に入れるには、商品を買う客という他者の欲望を満たさないといけません。


中心に矛盾を抱えているので、ここから金は汚いとする一方、拝金主義的でもあり、その齟齬を働くことは尊いとすることで丸め込むような価値観が生まれます。ちなみに勤労も近代的な概念です。プロテスタントとか。すごく大雑把に言うと、前近代は神に祈る方が大事でした。現代日本の価値観が超時代的で普遍的に通用するはずもありません。

矛盾・時間・運動

前回木構造を見たときには合理的に思えましたが、それは急な変化に柔軟に対応できないという欠点があります。近代は産業が発展して変化が早いので、それでもうまく回る動的なシステムを求めますが、資本主義がよくマッチしています。「世の中金だ」として成員を制御する貨幣は、金銀と違って商品に交換されなければ意味がありません。その流動的な循環を通して客〜客体〜他者〜外部の変化に動的に対応できます。


商品と貨幣の交換は「命がけの飛躍」ですが、これは木構造で言えば子が親を生むような矛盾です。しかし、親子(貨幣−商品)はまだ対等ではありません。貨幣が上です。それは売る(貨幣を入手する)方が買う(商品を入手する)方より難しいという自明の事実に支えられています。また日本の貨幣は日本銀行券しかないように、依然として貨幣と商品は1対Nの関係です。整理すると、前近代が静的な1対Nのシステムなのにで対して、近代は動的な1対Nのシステムです。下図のようになります。


前近代的階層型図式(ツリーモデル)
親→子→子→子→子→…


近代的循環型図式(クラインの壷モデル)
交換→貨幣→商品→交換
↑←←←←←←←←←↓


実のところこれだけです。簡単ですね。ところで予告した「脱構築」はどこに行ったのでしょうか? 実はクラインの壷モデルは脱構築のモデルでもあるのです。二項対立の解消ですから。『構造と力』にもそう書いてあります。ただし、限定的なそれに留まります。「大きな物語(の凋落)」というのも、メタ物語の階層システム(が維持できない)ですから同じようなことです。そして次回はいよいよN対Nのシステム、リゾーム=ネットワークをやります。

追記

聖なるものが、最も穢れている(もしくはその逆)を指摘する(見出す)声も。


はてブでの指摘ですが、『焼け跡のイエス』みたいなことですね。確かに中心の欠如は前近代にもあります。金銀は実は価値に実体がない点で貨幣と同じ空虚さを持つというのと同じです。しかし「聖=穢」は空間的で静的です。みんなが巫女になったりはせず、特定の人・物・場所に集中しています。あるいは祭りという一時的な非日常で現れます。対して近代は時間的で動的です。そこら辺のことも『構造と力』に書いてあります。過剰を集約的に引き受ける浮遊するシニフィアンが、外部・カオスへと排除される、というスケープゴートの仕組みですね。