ポストモダン論(前)
知の欺瞞?
まなざしの快楽
彼は、元々は私の影響でポモ系の語彙を使い始めたのですが、意味が分かりにくいし、よく言葉を間違っています。こういう文章に触れてポモ系への誤解が増します。
ポストモダン系の論者は分かりにくいことが多いのですが、私は素人なので分かりやすいポストモダニストになろうと考えています。ジャーゴンは拡張性を残すために使うけれども、その予備知識がなくても理解できるように述べたいと思います。今まで暗黙の内にその概念を使っていましたが、正面切って説明することはありませんでした。しかし、長く読んでくれる読者(がいると信じて)のために、一度解説しておきます。
木構造
図式A
神→人
親→子
男→女
兄→妹
大人→子供
教師→生徒
作者→読者
上司→部下
親子・男女
まず、小説家や画家のような作家のことを「先生」と呼びますね。素朴な作家主義の前提として、作者は読者に先行しています。それは内容の側面における主題(人生観がどうこうとか)、形式の側面における技術(描写力がどうこうとか)、両方の面においてです。これは教師→生徒の関係に似ています。物語・知識の伝達は一方向でなされます。作家も教師も「先生」と呼ばれるでしょう。
さらに、こういう力関係は大人→子供・男性→女性などにも見られますが、一番の原型は親→子でしょう。当たり前の話ですが、子から親が生まれることはありません。実の親なら必ず先に生まれています。この親子関係を、一般的な組織の構造に見て取ることができるでしょう。つまり、軍隊も監獄も会社も学校も病院も、命令系統のシステムとしては同じものなのです。(図式A)
これらの組織は社会のイデオロギー装置です。イデオロギーというと政治的で演説的なものを思い浮かべるかもしれません。しかし、一人の先生が複数の生徒を教えるというような、疑問に思うこともなく無意識に従っている形式こそが、権力の源泉になっています。教えている内容のレベルではなくて、教えている形式それ自体がシステムとして作動します。
木構造
親子関係などを一般化すると、木構造になります。もし1000人が横に並んで1000回伝言ゲームをしても、劣化コピー現象で情報はまともに伝わらないでしょう。これは戦場なら致命的です。しかし、一人の上司が二人の部下に伝達するという形にすれば、2の10乗は1024なので、9回の伝言で済み、きわめて効率的に情報を伝達できます。デジタルな情報処理でも木構造は出てきます。
要は1対Nの組織化がプレモダン(前近代)〜モダン(近代)のシステムの中心です。システム論で言うシステムの目的は複雑性の縮減にありますが、今まで述べた1対Nのシステムがまさにそれです。しかも木構造は自己相似形になっています。この相似は共同体の共感の源泉にもなっています。根元に辿っていくと最終的に到着する(はずの)単一の起源に、崇高なものを投影します。
ツリー
今まで述べたことは、『構造と力』でいうと「ツリー」に相当します。この階層構造は色々なものに当てはまります。例えば形而上学も同じ構造をしています。例えば具体的な一つ一つの物が葉だとすると、それを抽象する概念化の道筋が枝になります。そして階層の上位に行くほど末端の葉を多く包括します。超越者は全体を包括します。
もっと具体的な例を考えてみましょう。例えば良い学校に行き、良い会社に行くということも、丁度ピラミッドのような階層を上がっていくことに相当します。そして、小学校→中学校→高校→大学→企業という系列を伝って、欲望は先送りされていきます。幼い頃から受験に耐えるのは、より上位の受験のためになるという構図です。再帰構造です。
例えば高校野球などスポーツのトーナメントでも全く同じことです。一県一校の出場校は試合が進むにつれてチーム数が減っていき、観客は同じ四国とか近畿とか東北のより近くの県を応援します。『文化記号論』ではそのような構造は未開民族も持つということを指摘しています。蛇足ですが、マンガの武闘会形式も同じでしょう。