検索的権力の話

社会的な視点と思想的な視点の次は、技術的な視点で語ってみましょう。
米光氏は、書きたいように書くというのは言うほど簡単じゃないと言う。
これは頷けます。例えばグーグルアドセンスは検索し最適な広告を配置
するシステムになっていますが、たまに公共広告が入ることがあります。


「デリケート」な単語を使うと公共広告(無収入)になるらしいです。
(他にも対立するアフィリエイトを入れるとダメとか色々あるらしい)
これは地味な話だけど、案外大きい問題なのかもしれません。それは、
空気を読む構造とも関連するからです。自主的な検閲には限りがない。
もしかして、その方がネットが脱便所の落書き化して良いと考える人
がいるかもしれないので、なぜそれが問題を孕むのか説明しましょう。


例えばAという言葉が禁止ワードになっているとしましょう。
Aというのは人を形容する言葉だとします。そのとき単純に、
「Aは氏ね」という風に誹謗中傷差別罵倒するために使う
だけとは限らず、「Aを差別するのはやめましょう」という
文章も、同様にシステムから弾かれてしまう可能性があります。


「Aは〜」と書いた文章が偏見的で差別的だとしましょう。
もしそれが禁止ワードで弾かれて、弾かれることが正当だとしても、
それを引用した「>Aは〜 と言っているが〜」という文章も
同様に弾かれてしまうでしょう。まんま同じ文章なんですから。


この問題に対して、それはblockquoteタグで囲んだ部分を
引用とみなすようにシステムを改良すればよいのではないか、
という意見もありえるでしょう。そしてもしかしたら実際
そうなっているかもしれません。(詳しくないので分からない)
でも、今度は元の差別的な文章が、引用タグで囲んでしまえば、
何を言っても大丈夫になるので、そんなに単純な話でもないです。


グーグルの技術力をもってすれば、もっと適切なものに
改良されていくかもしれません。その是非は別にして、
以前は道徳の領域にあった法が、アーキテクチャーで
自動的に作動するものに変化するという傾向が確かにあります。