ネオエクスデス化するポストモダン

カオナシ的、ネオエクスデス

少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:ラブひな編


ライバルの影が薄くなることと、師匠と同一化してしまうことは、
同じ現象の二つの側面である。または低カリスマ性とも関係ある。
これらをひっくるめて、カオナシ化とかネオエクスデス化と呼ぶ。
ISR分析におけるR→Iである。または動ポモにおける過視性。


前近代から続く伝統的文化でも、例えば「木村庄之助」「式守伊之助
のように襲名するシステムはあるだろう。近代的個とは別のシステムだ。
ポストモダンでは、個人から再び共同体のような全体論へ回帰していく。
ただし、その結びつき方は地理的ではなく、ネットワーク的ではあるが。


『河原崎家の人々』で、異なる人間が入れ替わり立ち代わり同じ立場を
継承してしまう構造は、異なるキャラクターが同じキャラを継承するのと
同じ構図である。だから二次創作やコスプレとも同じことなのだ。
それを可能にするのは多重人格のようなモジュール化である。

多重人格と多相人格

α β
A a b
B a b


上図で、A・Bの身体があり、それぞれa・bの(多重)人格を
抱えているとしよう。このとき、身体を横断してα・βという
仮想的主体が成立し、この存在がしだいに大きくなってくる。
例えば2ちゃんねるの「1」などはこのバーチャルな主体で、
しかも「>>○○は1」のように上書き更新しようとする。


この横断的な人格を差し当たって「多相人格」と名づけておこう。
名無しも、人類補完計画も、マルチチュードやスマートモブズも
同じような集合的無意識の顕在化の話である。冒頭に戻れば、
景太郎が瀬田を継承するのも、同じような構造になっている。


しかもFate(英雄)だとか一騎当千三国志)だとか、
ひぐらし(オヤシロ)だとか攻殻(ゴースト)だとか、
多重人格が発展して、幽霊が憑依するようなモチーフ、
あるいはレイヤーを重ねるような作品は後を絶たない。


思弁的な俯瞰図ばかり描いているので、もう少し具体的な話もすると、
例の記事で主人公がヒロインに移動しているという話が出ていたように、
読者は主人公ではなくヒロインに同一化するのである。そしてそれは、
ツンデレがライバルを吸収合併したのと同じような仕組みになっている。

アスペクト

モジュールを横断する非機能的要求群という抽象的な枠組みで見れば、
前にも述べたようにアスペクト指向プログラミング(AOP)と共通する。
ここでの「アスペクト」の元ネタは、遠くウィトゲンシュタインだろう。
(ちなみに「モナド」のような概念も、共通していて興味深い)


もはや大きな物語の時代のように、他者と回路をなすことなく、
自己が多重人格的にバラバラのキャラに解離した状態で作動し、
それが流通するネットワークにおいて神の見えざる手のように、
自動的に集団的人格が出現する。それがネオエクスデスである。


ではそれが動物化なのかといえば、全然違うのである。
ラカンジジェクは自己の一番中心に他者を見つける。
自己の投影としての他者への感情移入の裏返しとして、
他者の投影としての自己からの感情移出がありうる。


それは非決定性とか不確実性の問題に関係がある。
例えば、ルビンの壷だとか、うさぎ−あひるの図
のように、錯視図形は見方によって反転する。
高寺彰彦コミッカーズで、最近のマンガの絵柄を
騙し絵のようだと評したが、むしろ文字通りなのである。


流麗な絵柄を萌えと言っている段階はまだ保守的な萌えである。
その地点はまだ「フェチ」とも繋がっているだろう。
だが、ひぐらしのように読者側が強引に補完してAjaxのように
非同期で読み込んでしまう地点では、萌えのアナーキーさが出現する。

まとめまとまらない

もしかするとこの文章を読んでいて、まとまらないものを感じる
かもしれない。私自身の力不足を棚に上げるわけではないが、
それもまた同じ構造に由来している。どういうことだろうか。
この考察のスタイルもネオエクスデスのように、モジュールの
ブリコラージュ(寄せ集めの器用仕事)でしかないからだ。