フェチと萌えの違い

たけくまメモ: 俺と萌え(番外)フェチと萌えは違う?

斎藤環の場合

斎藤環は、フェチの萌えの違いを、実在物と虚構物の違いだとする。
フェチは切手や鉄道のように実在し、萌えはキャラのように虚構だ。
そしてまた、虚構が性的対象になりうるのが、オタクであるという。

東浩紀の場合

東浩紀は、萌えをデータベース消費と関連付ける。
即ち異なる作品で使用できる二次創作の可能性だ。
動画の萌え要素は、再利用が難しく、流通しない。

萌え理論の場合

萌えは萌え空間、即ち可能世界を開く。対してフェチは、現実世界に留まる。
靴など何らかの素材感が好きであっても、それは単に事実として好きなのだ。
萌え理論における可能世界論は、斎藤と東の論のハイブリッドになっている。


このキャラがこのストーリーでこの絵師が書いてこのシチュエーションで…、
という動的な生成が、萌えでは可能だ。フェチの遷移は、静的なものである。
Ajaxが非同期でスイスイ動いたように、二次創作がスイスイ動くのが萌えだ。
したがってここで、「萌えとはフェチ2.0である」とぶちあげるのも良い。

たけくまメモの疑問に答えると

ただ俺には今でも「フェチ」と「萌え」の本質的差異がよくわからなかったりするわけです。たとえば「メガネっ娘」に萌えるとか、ネコミミなどに萌えるっていうのは「フェチ」とどこが違うのかとか。


以前「髪の法則」で、現代キャラデザインとストーリーとの関連を話しましたが、
フェチがたんに「その」メガネっ娘もしくはメガネが好きなのに対して萌えでは、
MOEフィールドが展開し、メガネっ娘が三つ編や文学少女など他の属性と関連
し、しかもかつネコミミであるとか、ツンデレであるだとか、動的に生成します。
それはコミケやネットなどメディアが発達したから可能なのですが、そこが違う。

フェチと萌えではこれくらい違う(イメージ図)

ルイス・ウェインさんの描く猫の変遷
今までの記述では、大して違わないように思われるかもしれないので、
イメージを示すと、フェチと萌えではこれ位違っています。
生物都市からネオエクスデスまで、ラスボスはキマイラ的な
生成的な主体になっています。分散コンピューティングのようなものです。
萌えの主体は、無意識のうちに、コミケやネットで見た数万のキャラ群を
統合またはバラバラのまま動かしていて、その移行は静かな激変なのです。
現代マンガの全体像 (双葉文庫―POCHE FUTABA) で示すようなコミケのビジョン(ただ好き)とは
全く違います。この生成、ジェネシスのダイナミズムが萌えの魅力です。