オブジェクト指向的、萌えキャラクター的

最近のマンガ・アニメ・ゲームはつまらなくなったという主張はよくある。
実際、昔のジャンプの方が面白い気はする。コミケに市場が移ったとしても、
それらは薄くて意味不明で、宮崎駿庵野秀明の言う劣化コピーではないか。


だが分量的にも、一人の漫画家が書いた十冊の単行本は、
何十人何百人の同人作家が書いた百冊位の同人誌と比較されるべきだ。
そのような視点では、逆に普通の作家的なマンガが薄い気がしてくる。


百冊単位の視点で見れば、萌え系の文化は決して薄くない。
そしてその百冊が一つの集合である根拠は、一冊一冊を
キャラクターなどの要素が横断しているところにある。


さて『テヅカ・イズ・デッド』でキャラクターの話があるが、
キャラとキャラクターの違いとか、全体的に曖昧な気がする。
「内面の重層化」とか、いかにも文系といった感じの定義だ。


登場人物とキャラクターとキャラの違いは、
インスタンスとオブジェクトとクラスの違いに喩えれば一発だ。
萌え系キャラのデザイン手法はオブジェクト指向に似ている。


キャラとは、複数のキャラクターを記述する型。
キャラクターとは、個別の作品の設定を持ったキャラ。
登場人物とは、具体的にマンガに描かれ実体化したキャラクター。


登場人物の次元では、同人誌一冊一冊でもすべて別で、
キャラクターの次元では、原作メディアミックスも含めて作品単位で同じで、
キャラの次元では、個々の作品も超えた類型になっている。


参照とライブラリの視点から考えれば、断片化はむしろ情報効率の最適化である。
ここからむしろかつての作家的作品の方がスパゲッティソースであるとも言えよう。
これは、東浩紀の言うデータベース的発想とは少し違う。それはデータ構造の話だ。


カプセル化は、前述の萌えの組合せ説と都合がいい。
継承は、綾波系のキャラクターで露骨に見られた。
多態性は、デフォルメキャラも用意するというようなこと。


だから同人は知らないうちにオブジェクト指向を実践していると言えるが、
より明示的で体系的なプログラミングの言葉を移植する意義というのはある。
もちろん二次創作だけが同人の全てではないけれども。


例えば開放−閉鎖原則(モジュールは「拡張」に開き、「修正」に閉じる)がある。
これは、「なるべく原作の設定は変えず、新しいシチュを工夫すべき」
というような議論にわりとそのまま当てはまると思う。


付記すると、「ここだけツンデレのキャラが入ってる」というような場合、
アスペクト指向として捉える可能性もあると考える。
ここでの「ツンデレ」はモジュール(キャラクター)を横断する非機能要求群である。


また「キャラ立ちして作者の手を放れた」現象は、
エージェント指向における自律的振る舞いを当てはめたい。
ネットワーク的に接続や参照が煩雑な場合に威力を持つ。


テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%C5%A5%AB%A1%A6%A5%A4%A5%BA%A1%A6%A5%C7%A5%C3%A5%C9