萌えの定義
「萌えの組合せ説」について以下説明します。
よくある萌えの説明では「好き」との区別もつかない。
そこで萌えの包括的な説明体系を提出します。
例えばテクストとハイパーテクストの違いは、
文章の内容ではなく、ハイパーリンク構造にあります。
同様に好きであることと萌えることの違いは、
何が好きか/萌えるかではなく、順列組み合わせ構造にあります。
(ここではよくある説明と違って「何が萌えるか」は完全に無視します)
「Aは萌える」という文の成立条件の一つに「順列組合せ」があります。
(「組合せができないならば萌えない」または「萌えているなら組合せはできる」)
「順列組合せ」が可能なことが最広義の萌えの条件で、そこから細分化していきます。
具体的には以下のようなイメージです。
組合せ+好き=萌え
萌え+キャラ=キャラ萌え
キャラ萌え+美少女=美少女萌え
美少女萌え+妹=妹萌え…
近代的な愛は個人に対する愛ですが、萌えは個人を横断します。
例えば、(((巨乳)and(乳ゆれ))or(貧乳))and(スク水)
のような組合せに萌える訳ですが、それは個人への「愛」ではない。
従来の「好き」と「萌え」の差異は組合せ・集合をなすかという事です。
狭義のキャラ萌え、美少女萌えについて言えば、こう言い換えられます。
萌える作品・キャラは「二次創作」を生み出します。
ここでの二次創作とは同人のみでなく、
企業による二次創作、例えばメディアミックスも含みます。
古典的な文学作品が好きな人はたくさんいます。
しかし二次創作という視点から見ると「萌え」とは言いにくい。
ほとんどは「その」文学作品が好きなのです。
対して「その」同人誌だけで「萌え」が成立しているのではなく、
原作も含めた様々な同人誌がなす集合全体に萌えているのです。
個体に対する愛情と集合に対する愛情を区別すると「好き」と区別できます。
宮崎アニメ・大友や押井のアニメを例にとります。
これらは観客動員数から考えると二次創作は圧倒的に少ないでしょう。
原作を分母、二次創作を分子にしたものが、消費における萌えの要因の強さです。
(ただし版元が著作権に厳しいとか、萌え以外の外的要因ももちろんあります)
あるいはFFは萌えによって売れたというよりも、
単に美麗なグラフィックや高度なシステムやその他営業力や広報力で売れたのでしょう。
対してガンパレとかは萌え要因が強いと言えます。その基準は二次創作の割合です。
またエヴァに関して、綾波なら同人誌でもフィギュアでも
何でも集めるのは綾波に対するキャラ萌えでしょうが、
認めるのは原作のみだとサブカル的消費をする人は、
萌えよりも古典的な作品への没入をしているのでしょう。
キャラをタイプによって分割して再構成する、
バリエーションの総体が萌えなのです。
最近ならツンデレとか、VIPは実験場になっています。
「このキャラは好きだが萌えない」とはバリエーションがないということです。
「このキャラは萌えるが好きでない」とは「この」キャラはだめだが、
別のバリエーションで萌える組合せがありえるということを意味します。
(ここで「キャラ」や「萌え」を二重の意味で使っていますが、
それは別の機会にキャラクターと登場人物の違いなどで説明します)
「順列組合せ」と「メディアの発達」は関係があります。
印刷術の出現前は一つ一つを筆写していましたし、
フランス革命頃までネジの一つ一つにも個性があって、
簡単に順列組合せを実現することはできませんでした。
歌舞伎や浮世絵も約束事やパターンがあるから萌えじゃないか、
という疑問に対しては「複製技術」が分けます。
今の同人市場からMAD系のFLASHに到るまでの二次創作の流通を見るときに、
メディアの条件への注目が、萌えの理解に必要でしょう。
何に萌えるかという点で、当然萌えには主観的な面がありますが、
萌えという欲求または欲望に駆動されて消費する、人間の行動は客観的に観察可能です。
前述の二次創作/一次創作という萌え係数のような操作的な方法論も可能になります。
結論としては、萌えとは「集合的愛情」「組合せ構造を持つ好意」
「可能世界での恋愛感情」…どのように言ってもいいのですが、
順列組合せ構造が最低限の条件になっていることは妥当だと考えます。