ボルヘス『伝奇集』――半世紀以上前のノベルゲーム的発想

ボルヘス『伝奇集』(岩波文庫

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

夢と現実のあわいに浮び上がる「迷宮」としての世界を描いて現代文学の最先端に位置するボルヘス(1899〜1986)。われわれ人間の生とは、他者の夢見ている幻に過ぎないのではないかと疑う「円環の廃墟」、宇宙の隠喩である図書館の物語「バベルの図書館」など、東西古今の神話や哲学を題材として精緻に織りなされた魅惑の短篇集。

半世紀以上前のノベルゲーム的発想

マジックリアリズムの先駆者

アルゼンチンの小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編が収録された『伝奇集』。架空の書籍を批評するなど、現実と虚構が入り交じった作風が特徴的だ。後のラテン・アメリカ文学マジックリアリズムと呼ばれる手法の先駆者であり、ポストモダン文学に影響を与えた。フーコーも自著で彼の著作の一節を引用している。

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」は、最もボルヘスの作家性が現れており、本書の冒頭にふさわしい作品。「これは、わたしの感情の物語ではなく」とあるように、登場人物が登場・行動・会話するという一般小説の約束事を完全に無視して、架空の百科事典に関する抽象的な思考が展開していく。

「円環の廃墟」は、最も小説らしい小説。完成度の高い短編小説なので、ここから読み始めると、ボルヘスの世界に入りやすいかもしれない。「バベルの図書館」は、現実の制約を取り払った、最もSF的な世界観。バベルの塔のごとく、無限の空間を持つ図書館という設定だ。

「ハーバート・クエインの作品の検討」は、「逆行し分岐する小説」といったような、架空の小説に対する書評。現代のノベルゲームで一般的なマルチシナリオの発想が、コンピュータすら発明されていない半世紀以上前に書かれている。次の「八岐の園」の記述と合わせて、個人的に最も驚いた。

ボルヘスの可能世界的な時空観

『八岐の園』は、崔奔が考えていた世界の不完全な、しかし偽りのないイメージなのです。ニュートンショーペンハウアーとことなり、あなたのご先祖は均一で絶対的な時間というものを信じていなかった。時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。われわれはその大部分に存在することがない。ある時間にあなたは存在し、わたしは存在しない。べつの時間ではわたしが存在し、あなたは存在しない。また、べつの時間には二人ともに存在する。
(「八岐の園」より)

ギリシャ神話には、「クロノス」と「カイロス」という、時間にまつわる2人の神がいる。クロノスの時間は、時計のように機械的に進む客観的時間。カイロスの時間は、人間が体感する主観的時間だ。

たとえば、「一時間が長い(短い)」というのは、物理的時間は伸び縮みしないから、カイロス時間について述べたものだろう。この2つの時間は、決定論的世界と可能世界という、2つの世界観に対応している。

そして、ノベルゲームの分岐・選択システムは、この可能世界のシミュレーションになっている。現実世界では別の行動を選択し直すことは不可能なのだから、分岐・選択を繰り返してグッドエンドを目指すというのは、極めて人工的なシステムなのだ。

このブログの初期の副題には「可能世界」が入っていたが、そのように可能世界論を好む私としては、とても興味深く読んだ。私は別の場所で「ホワットダニット」というキーワードと結びつけて論を展開しているのだが、ゲームやネットが普及した現在の状況で、このような虚構性・架空性は、新しい物語を紡ぐ力が宿っているように思えるのだ。

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