「好きを貫く」と「好きを見出す」

「好きを貫く」

好きなことを仕事にしたとたん、「好き」はあなたを縛り付け、苦痛を与え続ける拷問台になる。

id:fromdusktildawn氏の主張を最初に要約しておく。たとえステーキが好きでも、それを毎日食べ続けると、やがて飽きてしまうだろう。飽きてなお食べ続けるのは拷問に近い。職業も専門性が求められるために、同じような現象が起きる。好きなときに好きなことをする方が理想的だ。このように、「好きを貫く」生き方に疑問を提示し、さらに近代的自我に対する、ポストモダンにふさわしい人格を考えた。

このエントリは、「分裂勘違い君劇場」の中で、トップクラスの良記事である。長文だが読みやすいし、いつもより爽やかで楽しい読後感がある。梅田望夫氏は「ウェブ時代をゆく」でスペシャリストとジェネラリストのタイプを想定しているので、fromdusktildawn氏の言っていることは、実は少し被っているのだが、それでもカウンター力はあると思う。

しかし、トラバ記事やブクマコメントの批判にもあるが、普通は手当たり次第に手を出して喰っていくのは難しいだろう。つまり、器用貧乏になる。その場その場で好きなことをできるのは、何かに恵まれたごく限られた人間なのではないか、一般の人間には関係ない話ではないか、という疑問は芽生える。

しかも、批判されている「好きを貫く」も、「好きでは喰えない」というやつで、一般人が採用するにはかなり難しい生き方だ。梅田氏は若くて優秀な人間に向かって呼びかけているふしがあり、「好きを貫く」かどうかは、一般庶民にはあまり縁のない浮世離れした話のようにも思える。だが以上は、結論ではなく前提である。

労働と遊び

生きていくためには労働して金を得る必要がある。そもそも労働とは何か。対価を得る作業だ。何に対する対価なのか。例えば営業職ならば、契約という形で成果が可視化されているので、歩合制で分かりやすいだろう。しかし、近代労働は時間労働で、時間に対する賃金(時給)になっていることが多い。だがもちろん、時間自体を売ることは不可能だ。

時間を売るというその内実は、自由を売っているのである。すなわち、行為の選択=可能性が制限される。単純な例で言うと、「刺身の上にタンポポを乗せる仕事」(もちろん実際には単調作業といってももう少し複雑だろうが)では、「タンポポに乗せない」という選択はできない。その代わり、刺身はタンポポが乗った、より完成形に近い形になる。

要するに、複雑性を縮減することで商品価値が産み出されるが、労働者はそのシステムの一部に人的資源(自らの身体)を貸し、結果的に労働者の行為の複雑性も縮減する、というのが労働の構造になっている。この労働の不自由さに、労働者の疎外を見ることもできるだろう。

一方、「遊び」は自由である。だから「仕事は遊びじゃないんだぞ」と言うのであり、遊びで金をもらうことはできない。しかし、労働と遊びのマージナルな部分があるのだ。いわゆるクリエイティブな職業がこれに相当し、だから人気があるのだろう。ただし、プログラマーは残業が多いとか、アニメータは給料が安いとか、その底辺では「夢を実現する仕事」のお題目は空虚に響くのだが。

だから、「好きを貫く」線というのは、労働と遊びの境界線でもあるだろう。素朴に考えて、遊ぶには金が必要なのだから、金をもらって遊ぶのは最高だ。しかし、労働賃金は労働力の需給によって決まる。クリエイティブな職業はみな憧れるので供給過剰になり、賃金が異常に安いか、ごく一部の人間しかなれないか、どちらかになる。

だから結局、多くの人間は糊口を凌ぐために、不本意な労働をしているのである、というつまらない現実に辿り着くことになる…。だが、「萌え理論」を看板にしているのに、これを結論にしたら、萎えるのもいいところだ。ここから更に深く考察しよう。

「好きを見出す」

クリエイティブな職業が一部にある、という平凡な発想を、職業の一部にクリエイティビティがある、と反転してはいけないだろうか。確かに、近代産業は機械化しているので、多くの仕事は単調作業だ。だが、ベルトコンベアーのような最も単調な工程においても、工夫のしどころは無ではない。実際、人によって作業の速さが違う。

刺身の上にタンポポを載せるような仕事ですら、そこに何かを追求する余地があるかもしれない。なぜそう言えるかというと、ほとんどインクをたらしたような絵が芸術作品として高価で売れている事実があるからだ。芸術と違って労働は細部を見る余裕がないが、その細部を見出す可能性はあるだろう。「細部に神が宿る」のである。

「好きを貫く」の対極として、「好きを見出す」というのを提唱したい。はじめの記事では、好きな仕事がだんだん拷問になっていく、という話だったが、拷問のような仕事に好きなところを見つける、というようにここでは反対のことを考えている。最初の記事にあるような理想的な恵まれた環境になく、不本意な仕事にあっても実行できるので、現実的である。

もう一つ、趣味の時間を侮ってはいけない。労働時間が一日8時間、自由時間が一日4時間あるとしよう。もちろん、残業が多い職場もあるだろうが、通勤時間だとか色々な余剰時間を有効利用することを想定している。すると、厳しい競争をくぐり抜けなくても、半分の時間ならクリエイティブになれるのだ。

もちろん、趣味は趣味で、飯は喰えない。権威もない。だが、だからこそ、純粋に好きなことができるのではないか。それに、仮にクリエイティブな職業のプロになっても、競争が激しいのですぐに辞めることになるかもしれない。じっさい、プログラマーの35歳定年説というのもある。そうすると、趣味でやっている方が長続きするということは大いにありうる。

ブログに好きを見出す

最後に。具体的な好きの見出し方の例としてブログを挙げる。いや、ブログは趣味だから例として不適切ではないかという意見もあるだろう。ただ、このブログの読者にとっては一番情報が多いし、読者が書いている確率も高く分かりやすいサンプルなので、私がブログにどう好きを見出しているかを説明して、このブログにしては少し長い文章の幕を閉めたい。

このブログのデータをエクスポートすると、4MB強になった。大雑把に、原稿用紙に換算して4000〜5000枚に相当する。更新日が500日くらいなので、一日10枚程度書くだけだから、そう無茶な量でもない。ただし、URLなど純粋な文章以外の記号も多いのだが、リンクを貼るのにも手間は掛かるし、情報量に含めて構わないだろう。

自分でもそんなに書いているのか、と呆れるが、このブログを二年書いて全く飽きない。基本的には文章を書くだけだから、単調と言えば単調なのだが、要素が非常に多く複雑なので飽きない。簡単に始められるのがブログの利点ではあるが、だからといって底が浅いわけではなくて、間口は広いが奥が深いと感じる。どういうことか。

まず、文章に何を書くかによって、分野はいくらでも広がる。最近は広げすぎて、「萌え理論」というテーマが散漫になっているきらいもあるが、時事問題でもネット上の話題でも、技術的なことも心理的なことも、好きなことができる。小学生の読書感想文がつまらなくて苦痛だったのだが、書評は書いていて面白い。

文章以外にもデザインの要素がある。実際に、HTMLやCSSを書いている。また、絵などの素材を依頼することがある。マーケティング的な面がある。例えば、広告に何を載せるか。アクセス解析などを見て、流行を分析して戦略を立てる。ここでのSEOに、またHTMLが出てくる。たまに送られてくるプレスリリースに目を通して、掲載するかどうか、どう紹介するかを考える。

他にも、やろうと思えば、絵や音楽や動画を載せることも、コードを載せることもできる。非常に総合的なメディアである。それは、キメラ的(例えばFF5ネオエクスデスのような)な、雑多な寄せ集めだ。もちろん、素人の趣味に過ぎないレベルではあるが、金が掛からないどころか、広告収入があるので、アクセス狙いだとときに疲れることもあるが、続けたい趣味である。

ステーキは重いから毎日喰えば飽きるが、米やパンは毎日食べても飽きないだろう。米だけ食べるのではなくて、それをカレーにしたり牛丼にしたり、レパートリーをつければ、毎日食べても飽きない。だから、ブログがすぐ飽きてしまう人は、バリエーションをつければ飽きないと思う。

カオスと人間

最後の最後に。規則の限界内で無際限に複雑化する現象がカオスである。スポーツ選手の華麗なプレーを見るとき、それが完全にゲームのルールに従っているにも関わらず、非常に自由に運動している印象を受けるだろう。そのように、決定的な構造と主体的な自由が両立する場所が、最も魅力的な仕事場=遊び場なのである。

最後の最後の最後に。この文のテーマ自体は以前から漠然と考えていた。「ポストモダン」という語は使わなかったが、ポストモダンにおける労働についての考えである。しかし、こうして文章として結実するのは、fromdusktildawnさんの文章が、問題提起として非常に面白かったからだ。良くも悪くも、最も複雑で微妙なのは、人間のコミュニケーションである。だから、作業を拷問にしてしまうのも、その拷問から救うのも、人間なのかもしれない。

関連書籍

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

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