境界

拒否と交換

僕は、はしごたんとの個人的なやりとりを、ブクマやブログも含め、すべて絶つことに決めました。

ギャラリーからid:Masao_hateさんが責められた件ですが、彼女がいて友達になろうというのだから、そんなに非があるのかと思います。それに比べて、id:hashigotanさんが受け入れてくれるなら誰でもいいと代わりの相手を募集したことが、あまり考慮されていないと思います。

誰でもいいから相手になってくれというのを断ることは、許されるだろうと考えます。一方が乗り換えられるのに、一方は断れないというのは、不公平な気がします。それに、次の相手を探すのと誰でもいいの間には飛躍があります。といって、hashigotanさんを責めろという話ではありません。その資格があるのはMasao_hateさんだけでしょう。元々二人の関係なのだから。

秘密と公開

 おそらく今のhashigotanさんには「ヤリコン」のような手段しか思いつかなかったのだろうし、そのような手段しかなかったのでしょう。私はそう考えました。

私が批判するのは、あくまで他人が開催するオフであって、メールのやり取りではありません。メールをブログで公開募集する際には色々あるでしょうが、少なくともメールのやり取りはプライベートなので外部の者は関係ないと言えます。相手が誰でもいい、というのは賛成できませんが、私の性規範を押し付けるつもりはありません。

ソープ嬢に、ヤったあとで説教し出すオヤジぢゃないんだからさ。

喩えが不適切だと思います。まだオフは準備中ですから、普通のオフにしてもいいのではないでしょうか。

私が考える境界線として、一つはオフなら健全、不健全ならメール、もう一つは性と金が結びつかないのなら、最低限問題ないと考えています。それから、メールで約束して会うための旅費を渡す場合は、きわどいけど、いいんじゃないかという気がしています(と思ったけど、やはり少し引っ掛かるので留保しておきます)。

友情と友愛

友達になりたい

幸せを祈っています

「友だちになりたい」というより、硬い言い方だけど、「友愛」を感じるということだと思う。

幸せを祈っています、みたいなのは、心情的にあったり、儀礼的にあったりもするけど、(…)

id:finalvent氏から直接言及されてはいないのですが、(仄めかしメソッドか私のクリリンかはさておき)内容的に関連しているので書きます。オンラインの距離感は世代間で違うのだけれども、少なくとも今回の私の場合、finalventさんの引用部分が的確に当てはまります。確かに、友愛の感情を抱いた、という方に近いです。

finalvent: 人生もちだすわけじゃないけど、どうし(よう)もない孤独のズンドコで経験した切なさの空間みたいなものを、ええ、あそこを知っている人が世の中にはいるんだ、みたいな、テレパシー感。(from twitter

友達というのが、さしあたり学校・職場など日常を共有している場所から始まり、段々友情が芽生えたり芽生えなかったりするのに対して、友愛は対照的に、別の遠く離れた場所で、何かの感覚を誰かと共有している、と思い込むことによって生じ、出会ったり出会わなかったりします。

友愛は幻想に基づいているので、実際に会えば幻滅してしまうこともあるでしょう。ふつうは、他人の人生をウィンドウを介して一瞬垣間見るだけかもしれない。それも錯覚に近いような思い込みかもしれない。「それだけのこと」と言ってしまえば、そうだろうなと思います。

ただ、日常の人間関係は職場や学校などの場所に拘束規定されるので、それが宙に浮いているネットでは、より私的な感情で繋がりやすいと言えます。私的な感情が普遍に媒介されたかのような幻想です。単なる心情と儀礼ではなく、幻想ではあっても通じていると信じるのが祈りなのです。

崖とCATCHER

私としては、自分自身が崖で遊ぶつもりはなくて、崖で遊ぶ人を弾劾するつもりもなくて、崖の上に柵を設けたり、注意書きを書いたり、崖の下にマットを敷いたり、色々な場合を想定して、破滅的な事態を招かないよう、オロオロ心配してうろつく立場です。

それも野次馬だと言われれば、そうでしょう。それに、もちろん何も起こらなければ杞憂で、いらぬお節介をして間が抜けています。しかし万が一、何か起きた後では取り返しがつきません。「ネタ・釣りのつもりだった」で何でも済むわけではありません。

そういう態度では、友達にはなれず孤独かもしれませんが、一方通行の友愛の感情はそのままで、幸福を祈っています。高低は違っても崖から落ちた痛みを覚えていれば、面白味がなく興醒めであっても、気安く興味本位で囃し立てることはできないのです。