はてブでは大きな間違いほど指摘されない

このような散財による贈与は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。これは迷信のようなものであるだけでなく、経済的な行為である。

これを読んだ読者は、「難解なのでよく分からないが、何か重要なことを言わんとしている」という感想を持つかもしれない。しかし実際は、間違いが多く、無内容なことを無意味に難しく書いた無価値な文章である。意外に思うかもしれないので、解説していこう。

マルクスは等価交換を「暗闇への飛躍」と呼んだように、交換は奇跡的な行為である。

マルクスは「命がけの跳躍*1」をすると言っている。それをおそらく孫引きして読んだので、クリプキの「暗闇での跳躍」辺りと混同したのだろう*2。しかし、これ位の通俗的誤解は、ネットではよくあることで、まだましな方なのである。ここからが本当の地獄だ。

商品を売る人は売ってもらうのであり、貨幣で買う人は買ってあげるという非対称な関係が生まれる。資本家は労働者から労働力を買ってあげ、労働者は労働力を買ってあげるという非対称性にマルクスは搾取の基底をみた。

なんだこりゃ。「資本家は労働者から労働力を買ってあげ」るから搾取だというのか。そんなわけない。すごく雑に言えば、等価交換の形式が、等価であるにも関わらず、剰余利益を生むのは、剰余労働が投入されているからで、その労働が労働者に還元されないのが、マルクス的な搾取だろう。ではなぜ、そのような資本家との非対称的な関係に、労働者が甘んじているかと言えば、自らは生産手段を持たないためである。

想像界(神的なものへの期待)=闘争(略奪)をさけるために、神(貨幣という絶対的な価値)を想定し、等価交換(交換=コミュニケーション)が可能ないよに振るまう→貨幣に対して人は負債を負う(買ってもらう立場)、貨幣を持つ者は神様→交換に贈与性(貨幣への返礼)を混入し負債を返礼する。売るときに返礼が働く。

意味不明。ラカンから「想像界」という用語だけ引いてきて、後は連想で書いているために、電波的な文章になっている。

希少商品は希少であるから価値であるのではなく、「貨幣」が稀少であると認めることで価値を持つのであり、価値を認めなければ、どのような物語があっても、私的に思い入れがあっても価値を持たない。

稀少品は稀少だから(稀少)価値があるのだ。考えてもみるがよい。例えば、砂漠の真ん中で迷ったときのペットボトル入りの水は、いくら札束を積まれても売らないくらい、価値があるだろう。これは、ものの価値には有用性と希少性があるということと、商品には使用価値があり貨幣には交換価値があるという、二つの軸を混同しているから誤解したのだろう。

近代において、自然の脅威が科学技術によって、管理され、自然の脅威を調停する贈与関係の繋がりは希薄化する。ここにホッブズ的な自然状態(略奪)が生まれる。ここでは、貨幣交換が全面化することは難しいだろう。なぜなら貨幣交換は、負債感を生じにくく、貸し借りの感情が相殺されるやすく、繋がりの強度を生みにくい、繊細で弱いシステムであるからだ。

だから柄谷がいうように帝国主義において、植民地として略奪が行われたのは、等価交換などというめんどくさいものよりも、略奪が行われた。そしてこの等価交換という脆弱な行為を成立させるためには、国家権力が必要とされた。

これはひどい。極めつけにひどい。ホッブズの自然状態*3というのは、社会契約の成立以前に想定されるものだ。ホッブズ的自然状態の闘争が、近代の科学技術の発展によって出現し、帝国主義植民地主義の略奪につながる、などという珍説はこれまで一度もお目に掛かったことがなかった。しかも、さっき自分で、貨幣を媒介にしければ、AとBの望むものが一致しないから(等価)交換が難しい、と言ったではないか。それがいつの間にか「繊細で弱いシステム」になっている。さて、上の主張を整理すると、こんな感じになるだろうか。

  1. 近代科学技術の発展
  2. ホッブズ的な自然状態(略奪)が生まれる
  3. 貨幣交換が全面化することは難しい
  4. 等価交換などというめんどくさいものよりも
  5. 帝国主義的・植民地主義的)略奪が行われた

…一言で感想を言うと、デタラメでインチキ、バカも休み休み言えという感じである。こんな調子で、何でもかんでも、贈与と負債で説明してしまう。これでは専門家はまともに取り合わないだろうが、はてブではすんなり通ってしまう。これに誰もおかしいと突っ込まないところに不安を覚える。

*1:salto mortale

*2:「命がけの跳躍」というのは直訳で、普通に読めば「宙返り」「とんぼ返り」くらいの意味にも取れる

*3:万人の万人に対する闘争状態