フレームワークとしての「らき☆すた」
フレームワークとしての「らき☆すた」
「……らき☆すたの面白さだけは、わからないんだよなぁ……」
CPANモジュールは、それだけでは部品で何も出来ない。使ってもらってはじめて「楽しめ」る。
そしてPlaggerのように、「らき☆すた」とは真逆に、世界の方を提示して「キャラクター」をユーザーまかせにするモジュールもある。
京アニとかの周辺のエコシステムを理解しないと、楽しめないってのはそうだなぁ。
miyagawa氏に限らず、「らき☆すた」の面白さが分からないという声は多い。これは、去年のハルヒブームのデジャヴを感じる光景だ。そのときハルヒを「祭り型アニメ」と規定したのだが、らき☆すたも同様だと捉えている。祭り型アニメを楽しむためには、下記の前提が必要だろう。
- 複数人の視聴環境
- (動画サイトのコメントやブログの感想など、コミュニケーション)
- 複数の媒体で視聴
- (作品中の参照や、MADや二次創作まで含めたメディアミックス)
つまり、一人で単体で見てもつまらないのである。そしてそれは、dankogai氏が言及しているように、世界のmiyagawaが作り出した「Plagger」と共通性がある。Plaggerはフレームワークで、ボタンを押せば使えるという単機能ソフトではない。RSS(に限らずWebのデータ)を入力・加工・出力し、更にその処理をするプラグインを付加したり、設定を書くことで使えるようになっていく。
要するに、らき☆すたもPlaggerも、ある程度の環境が整っている必要があって、普段アニメもニコニコも全く見ない人が、らき☆すたをポツンと見ても退屈だろうし、RSSなんか知らなくてYahooのポータルしか使わない人がいきなり「Plagger」を使っても混乱するだろう。ちなみに、らき☆すたと逆ベクトルの動画は、やり込み系ゲーム動画だと考える。例えば、「ドラクエIII」をわずか三時間半でクリアしてしまう動画がある。これは極限まで短くするショートコードと似た思想がある。
オブジェクト指向としての「らき☆すた」
dankogaiは「OL進化論」と「らき☆すた」を並列させ、両者の違いは現実との距離だとするが、やや違和感を覚える。それは単に新しいか古いかといった世代的なことでもなくて、もっと根本的に枠組が違うと捉えている。ではその違いは何だろうか。
「OL進化論」のような従来の四コマが、(人物などが)構造化された作品なら、「らき☆すた」のような萌え四コマは、(キャラなどが)オブジェクト化された作品だと考える。違いは何か。オブジェクト化されたキャラは、クラスを継承したりインスタンスを生成できる。すなわち、こなたがハルヒのコスプレをしたり、MADで他のキャラに置き換わることができる。
現実と関連させて言えばこうなる。萌えはフィクショナルなので、現実的要素が萎えを喚起することがある。これは言わば、外部変数によってカプセル化が台無しになった状態だろう。現実世界において、最もグローバルに通用する変数は金だろうが、もしみゆきが金の力をちらつかせてこなたをいじめるような内容だったら、萎えるだろう*1。従って当然、「日常」や「普通」を描いていても、「現実」の女子高生とは全く異なるのである。
*1:パロディとして見る分には面白いだろうが