まず、あなた自身が他人を赦してあげて下さい。

話題の流れ

 だからもう自分を許してあげて下さい。だれも抱きしめてはくれなかったあなたの人生を、あなた自身で抱きしめてあげて下さい。
 ひとに愛されなかったとしても、だれにも祝福されなかったとしても、あなただけは自分が必死に生き抜いてきたことを知っているはずだ。自分を鞭打つことはもういいじゃないですか。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070725/p2

そう言われても・・・どうやってそれを納得させればいいんだろう?
自分自身の価値観だけで、この大地に揺るぎなく立つ事って出来るのかな?
(…)
自分以外の「誰か」から「YES」と言ってもらう事、ありのままの自分を受け入れてもらう事、小さな許しが他人から得られる事、間違ってなどいないと抱きしめてもらう事、そんなものでは無いでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/hobo_king/20070725/1185330948

 ネット上で諦念をぶちまけている若い人などをみていて考えさせられることは沢山あるが、その一つに「お前、悔しくないの?」というものがある。女の子に邪険にされたとか、会社で○○な目に遭ったとか、そういう出来事は生きている限り遭遇しないわけにはいかない不幸なわけだけど、彼らはそれを発奮材料にすることもなければ、悔しさに歯軋りしてみせることもない。ただ、呻くだけである。

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20070725/p2

「まず、あなた自身が他人を赦してあげて下さい。」

上で見た主張はそれぞれ、ある不遇な状況・感情があったときに、自分自身を許せ、赦しは他者が行う、奮起の材料にせよ、というものだ。最初に提起された「留保なき生の肯定」といった問題について、エロゲから引用するのは現代的でも、「ありのままを生きる」とでも言い直せば、まあ大昔からよくある話題ではある。そして、この言説の魅力は、実は修辞的なところから生じている。

なぜなら、もし「あなた自身を諦めてあげて下さい」と少し言い直せば、たちまち逆の反応が来るのではないか。「お前、悔しくないの?」はそちらよりの視点だろう。だからここでは、三者のどれが正しいかではなく、少し別の視点から指摘してみよう。自分を赦そうとするならまず他者を赦さなければならない、という(これもそんなに珍しくはない)命題がある。

人間は自然と自己中心的な傾向を持つので、他者を赦さず自分だけを赦そうとするだろう。しかし、皆がそのように考えるので、結果的には互いが互いを赦さない、という相互監視が生まれるだけである。これがいわゆる世間のしがらみというやつだ。

だから、発想を逆転して、他者を先に赦すべきなのである。普通の発想からすると、そんなことをしたら、自分一人だけが赦されず、ますます不遇感が募ると考えるかもしれない。だがまさに、そうではないと言いたいのだ。

精神的な癒しは、物質的な施しと違い、尽きることはない。できるだけ他人を責めておかないと、自分の分の救いが他人に奪われてなくなってしまう、と考えるのは、まさしく「蜘蛛の糸」的な心理である。そうではない。

自分が他人を責めるとき、構造的に必ず、同じ論理で後ろから、不特定の誰かに責められる。例えば、年収(地位・学歴・容貌・健康・人望…)が足りないと嗤えば、それをより持っている者から、嗤われるのもまた仕方ないだろう。

人間が共同体を形成している限り、自己と他者はメビウスの輪のように繋がっており、他者に宛てたメッセージは反転された形で自己に戻ってくる。だから、まず他者を先に赦してしまえばいい。もちろん現実的には、「お互い様」にならず、自分だけ赦して他人から赦されないかもしれない。それでも、自己に内在的な他者のまなざしが気にならなくなれば、無意識的には解放されるだろう。

これは何か深遠な人生論とか神秘的な教えではない。むしろきわめて表層的な言語実践の問題だ。価値体系は言語体系を用いて表し、かつ、自分専用の私的言語はありえないという、言ってみれば言語の唯物論的な基盤から生じている。