ミクロな視点の愛とマクロな視点の萌え

『「見えるもの(顔)を見ない」方法』というのは対象の固有美を他との比較対照から外し
幻想化する恋愛の為の一つの方法と思いますが、もう一つ、先の逸話の谷崎のように、
徹底的に他と比較対照し、対象の差異化のみを審美することで、醜美の固有性に
対してこだわらなくなる手法、『「見えるもの(顔)を見比べる」方法』もあります。

http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070719#p1

谷崎が来るとは予想外でした。すっと例に挙げるところに教養を感じます。ところで、審美的・芸術的という程ではありませんが、個ではなくそれらの差異を享受するというのは、「萌え」に近いと捉えられます。どうこうことでしょうか。

例えば二次創作では同じキャラクターが様々に表現され、その微妙な差異から美や生命感を感じるというのが萌えでしょう。スク水に萌えるといったとき、特定の人物ではなくスク水キャラの集合が対象になっています。つまり、近代的な個人への愛と、現代の集合的な萌えという対比です。

一方、エロゲの中でも泣きゲのプレイヤーは、萌え要素へのフェティシズムだけではなく、(虚構とはいえ)古典的な個々のキャラへの愛があると思います。そこでは逆に他との比較対照はどうでもよくなります。いたる絵からひぐらしの絵まで、感情移入したら流行の絵柄は関係なくなります。この現象が、前のエントリで述べたことです。

要するに、「大好きな○○しか眼に入らない」が愛で、「○○キャラはあれもこれも好き」が萌えだというわけです。このように原子論的なミクロの視座と全体論的なマクロの視座があって、それぞれ愛と萌えに対応しますが、エロゲなど虚構と違い、現実では数多くのパートナーを確保するのが難しいので、前者の方法論を述べました。