「らき☆すた」第二話で、OPだけではない魅力が見えてきた

第二話「努力と結果」

画面分割

左右に分割する冒頭の画面構成*1が印象的である。異なる空間を一枚の画面に納める手法は、そもそもマンガのコマ割りがそうなのだが、動きや音声が被さり微妙にズレるというのはアニメならではの表現*2だ。「ひだまりスケッチ」の場合、実写を取り入れた背景とデフォルメされた人物のモンタージュによって、現実と虚構が対立する効果を生み出しているが、今回の「らき☆すた」の場合は、虚構そのものが一枚岩の時空ではない。

興味深いのは、かがみやつかさ自体に、格別面白さがあるわけではない、ということだ。こなたにしても極端に変な言動で笑わせるわけではない。むしろそれらを比較して特徴が際だってくることで面白くなる。例えば、つかさがよく寝るという特徴は、一話のかがみの風邪のエピソードで既に出ていたのだが、かがみとつかさの一日を比較することによって、両者がいっぺんにキャラ立ちする。もちろん、一連の似ているシーンを二回繰り返しても比較になるだろうが、分割すれば時間が半分に圧縮できる分、より対比が鮮やかになるだろう。

更に注意深く見ると、こなたは毎日同じ服を着ているだけでなく、かがみたちと勉強会をするときにも、上にジャンパーを着ただけだと、襟の色によって分かる*3。おしゃれに時間や金を割かないだろうから自然なのだが、台詞で説明するよりもリアルに記憶が残る。「努力と結果」では画面分割という独自の形式を用いているので分かりやすいが、改めて見返すとこうした差異を強調する構成・演出は第一話で既に出ていた。振り返ってみよう。

第一話「つっぱしる女」

チョココロネ

「つっぱしる」というのは、冒頭の短距離走が表の意味だとすれば、裏の意味はこなたの価値観が、主要人物四人の中では突出しているということだ。それを示すときに、「チョココロネ」が重要なモチーフ*4になっている。冒頭で走った後、チョココロネを皮切りに延々と食べ物の話題が続くが、風邪の見舞いのエピソードなどを挟んで、結末近くでようやくこのエピソードの解決がつくことになる。オチをつけるのは最初は不在だったかがみだ。

それまで延々とバラバラの話題をしていたのだが、「チョココロネ」の頭は細い方か太い方かという話題で、ようやくこなたとかがみが一致する。その瞬間、画面のイマジナリーラインを切り返し*5、更に逆光を浴びるという過剰な演出によって、物語のテーマなのだと分かる。もっとも、かがみは同じことを軽く嫌がるし、みゆきと同じ食べ方をすることが分かり、再び元の会話空間に戻ってしまうのだが。

そもそも、こなたはみゆきからちぎって食べるやり方を前半に聞いていたが、後半になってもやはり最初と同じ食べ方をしている*6。歩み寄ったりはせず「つっぱしる」こなたの性格がよく出ている。しかし自己中心的だからといって、単純にバカだというわけではない。それが二話のテーマにつながる。返されたテストには「ソクラテス」に丸がついているが、無知の知という程ではないにしろ、一夜漬けなどマイペースでもそれなりに点数が取れているし、「頭からっぽの方が夢詰め込める」のかもしれない。

ディスコミュニケーションと「らっきー☆ちゃんねる

ディスコミュニケーション

要するに(アニメ版)「らき☆すた」は、(主にこなたと周囲の)ディスコミュニケーションを、微温的で微笑ましいレベルにフィルタリングして描いている。ケータイでゆるく繋がることが当たり前になった時代の流れも関係しているかもしれない。これは同じ日常系・空気系の作品でも、例えば「あずまんが大王」とはやや異なる。

あずまんが」は、(榊やよみやにゃも以外は)明らかに変なことを言いつつも、それなりにコミュニケーションは成立しているのが見せ所なのに対して、逆に「らき☆すた」は(各人の環境においては)わりと普通のことを言っているが、コミュニケーションの齟齬が生じているのを見せ場にしているのだ。

らっきー☆ちゃんねる

昔の特撮やアニメなど他作品と視聴者層への言及、角川系コンテンツへの言及、さらに「ハレ晴れ」など制作者の自己言及、ドラマCDからの声優変更という作品自体への自己言及、などが今回目立ったと思うが、見ればすぐ分かることだ*7。それらの直接的な言及よりも、「美水かがみ劇場(本編)」と「らっきー☆ちゃんねる」の関係が気になる。

テレビを消した画の後でEDのカラオケが流れるわけだが、(仮想的な)番組の出演ではない、キャラクターのプライベートな時間なので、カメラが扉の向こうに入れない、という理屈なのだろう。しかしそう考えると、「らっきー☆ちゃんねる」はプライベートな楽屋裏ではないから、あきらの黒キャラは素・地が出たというよりも、二重人格的なキャラそのものを演じている、という仕掛けなのかもしれない。そうすると、あきらから本編への突っ込みはより複雑な自己言及の回路になっている。これは、冒頭の画面分割と同じ(一つの番組が複数のチャンネルに分かれている)ことなのだ。

らき☆すた」は化けるか?

第一話を見た感触では、OPこそ中毒性が高くて素晴らしいものの、そこが頂点で後は普通という印象だった。しかも2クールあるという話だから、どうやって退屈せずに間をもたせるのかと思う。しかし第二話を見てみて、その印象が少し変わった。京アニ&ヤマカンのことだから、まだまだ次の策があるだろうし、毎回新しい手法を用いて、かつ、サブキャラを効果的に投入していけば、OPのカタパルトで急加速した後も、失速しないで飛び続けるかもしれない。

アニメと(四コマ)マンガとノベルゲームの中間のような、バストアップ絵がちょこちょこ微妙に動く会話も、結構飽きないものだ。ただ、ノベルゲームが隆盛する十年以上前にやったら、立ち絵を長時間「読む」習慣がないので退屈かもしれない。また、ツンデレハルヒの印象が強いので合わない、という先入観があった平野綾の配役も、特に後半のバイト想像シーンでは、意外と馴染んでいる。本編中のみゆきの解説台詞が生真面目過ぎるようだが、それによってコンビニバイトのシーンで崩れた台詞が光る。だからここでも、やはり対比になっている。

それにしても、ダイナミックなドラマは起こらないと分かっているのに、これだけ次回が気になる作品というのは珍しい。ハルヒ程ではないにしろ、原作のポテンシャルを120%引き出して、予想外にヒットする、という可能性も十分ありえるだろう。

*1:作り手としては出粼統や映画の技法を参照しているのかもしれない。それとは別に、レースゲームやゲーム「ドラゴンボールZ」シリーズの対戦画面を連想する

*2:ただし、最近ではFLASHを使ったデジタルコミックで、マンガもコマ内でアニメーションできるようになった。これはそれを反転させた、近い形態のようにも捉えられる

*3:時系列からいうと別の話題のはずだが、冒頭でのかがみとつかさの「くさい」という会話を思い出してしまう

*4:ちなみに二話の「ドリル」と同じ形をしている。ドリルはもっと分かりやすい「つっぱしる」モチーフだろう。つかさが連想する貝も「自分の殻」と解釈できる

*5:一回こなたのアップを挟んで視線を引きつけることで違和感を軽減している

*6:だいたいソフトクリームで自分がそうしているように、太い方から食べてチョコを押し込む食べ方もありそうなものだ

*7:例えば「コンプ祭り」は原作で2004年夏のときなどに言及しているので、見る前から分かるものもある