バッドノウハウの決定論よりグッドラッパーの自由意志

「で、みちアキはどうするの?」 - 「自由意志は存在しない」ということを、なるべく簡単に解りやすく説明してみたい

「精神が脳活動の随伴現象であるとするならば、自由意志は存在しない」

上の記述は素朴な機械的決定論で、自由意志の存在以前に、そもそも未来が決定されて分岐できず、可能性のない世界を想定している。しかしそれは、必ずしも世界に自由意志が存在しないのではなく、自由意志の存在しない世界を、記述しているとも捉えられる。

科学的因果関係か、自由意志決定か、どちらか一方が排他的に決まるとは限らない。記事では因果連鎖があるから自由意志がない、という思考をしているが、両立すると考えても、必ずしも矛盾は起こらない。*1

確かに自由意志の存在を示す経験的内容はないが、少なくとも、自由に行為している「かのような」実践には意味がある。正確に言うと、言語的実践の意味空間が開けている。どういうことか。

  • 「(精神が脳活動の随伴現象で、自由意志は存在しないが)お昼にこれを食べよう」
  • 「(精神が脳活動の随伴現象で、自由意志は存在しないが)休みの日にここへ行こう」
  • 「(精神が脳活動の随伴現象で、自由意志は存在しないが)ブログにこう書こう」

このとき、括弧の中を省略しても行動が全く変わらないのなら、プラグマティックな実質的意味を持たない。じっさい、昼飯を食べるのにいちいち脳波や神経や細胞を調べない(調べても予測できない)だろう。それなら短縮して単に「お昼にこれを食べよう」と言えばよい。要は内部の複雑な実装はブラックボックスでも、外部でシンプルなインターフェイスを使うことはできるという発想なのである。

*1:本当はここが一番重要な部分なのだが、本格的に説明すると長くなるので省く