非モテを心の問題に還元するのは危険

こころ世代のテンノーゲーム - 恋愛からの自由―「恋愛普遍主義」批判―

誰もがみんな同じように一定の年齢に達したら「初恋」をし、「恋に恋を」し、「本当の恋」をし、「大人の恋」をし、そしてその成果として「恋愛結婚」をするなどという馬鹿げた考え

斜見 - 非モテを吊るし上げてきた

同僚Bの恋愛資本主義からの脱却ともとれる発言が、まわりの人達の神経を逆撫でしました。

恋愛の自由競争市場からそう簡単に降りることはできない。なぜなら、資本の自由競争市場と同じ構造を持っているからだ。現代日本で資本主義から自由になるというのは少し厳しい相談だろう。資本主義への批判そのものや修正資本主義はともかく、全面的にオルタナティブなシステムへの移行は難しい。

もちろん本家の資本主義ほどの絶対的な性格はない。一生無職で暮らしていけるのは、一部の人間を除いてやや絶望的なのに対して、一生独身で暮らすのは十分選択肢としてありえるだろう。しかし、労働ほどの強制力はないが、家庭を持つことへの圧力は確実に存在し続けるだろう。それは人口問題が国家的問題だからである。

だから、精神的問題「だけに」還元することはできない。少なくとも経済的問題の領域も存在する。それはちょうど、失業者を「ニート」と言い換えるように、失恋者を「非モテ」と言い換えることで、問題の回避がなされよう。非モテは単なる趣味の問題に留まらない。就職して労働市場に参入しなければ生活できないように、恋愛市場を経由しなければ家庭を持てない。ここで、ある程度はオルタナティブな制度がありうる。まず、恋愛結婚に固執しなくても見合い結婚がある。それから、正社員の終身雇用制モデルが解体したように、正妻の終身結婚制モデルが解体するかもしれない。もうしているかもしれない。

それでも、そう簡単に恋愛市場から自由に降りることができる社会は当分来ないだろう。現在でもやはり正社員の方が生涯年収が多いことに並行して捉えるとそう言える。だから、無形財としての恋愛およびセックスの価値は否定できない。否定できるのは、恋愛を心の問題として「のみ」捉える論点である。確かに性関係は個の関係なので、コミュニケーションの問題が多くを占める。しかし、インフラは必要不可欠である。恋愛が純粋なコミュニケーションのみだと考えるのは、純粋に面接のコミュニケーションのみで就職の是非が決まると考えるほどおめでたい発想だ。有名大学の卒業(予定)者は、そもそも面接の部屋が違う(ことがある)のであるから。コミュニケーションすらできないことはよくある。

就職は新卒が有利なように、恋愛は学生の方が恋愛資源が豊富な環境にある。よほどスキルやキャリアがあれば自由に転職できるだろうし、よほどのモテなら環境は関係ないかもしれない。しかし、ふつう現実にはそうではない。(男で)凡人なら新卒でサラリーマンになるのが一番無難なように、学生時代に恋愛をするのが一番無難なのだ。もちろんその時期を過ぎたからといって無理になるわけではないが、多大な労力を必要とするだろう。「東大で大学院に入るのは自殺行為、それ以外の大学で大学院に入れるのは殺人」という言葉があるが、非モテ論は未成年禁止にしたらどうか、という案も、あながち冗談から発せられたのではないかもしれない。「楽しい」かどうかが問題なのではない。

孤児ほど恵まれない環境ではないが、高齢の非モテ(女も)は将来的に一定の確率で「孤老」になるだろうとは予想できる。恋愛も結婚も個人の自由であり、「独身も一つの生き方」というのは全く正しい。安易に差別したりムラ的な同調圧力を掛けるのは慎むべきだ。しかし、だからといって、特に未成年に安直に勧められることではない。学生時代全く恋愛経験のない者が卒業後に挽回するのは、就職のそれと同じではないがそれに近いほど難しい。だから、本田透の本は「大人の読み物」であって、未成年には勧められない。