「友情はセックスのない恋愛である」か?

最初の記事では、恋愛が友情を含む包含関係が成り立つとしてある。恋愛が友情を包摂するというのは、性的欲望が全ての欲望の元になっている、という(人口に膾炙した)「リビドー」論の発想に近い。

次の記事ではその論理モデルを物理モデルに拡張している。すなわち、友情から恋愛への発展を、水が水蒸気になるような相転移現象として捉えた。水蒸気が液体の水の状態を含むわけではないので包含関係ではない。例えば、「男女の友情が成立しにくい」というのをこのモデルで説明すれば、水の温度が100度で打ち止めになるように、友情の温度が上昇していくと、一定のレベルで恋愛に転移しようとする力が働き、友情のままではいられないのだ、と考えられるかもしれない。

疑問を提起しておこう。まず、やはり友情というか愛情は恋愛よりも範囲が広いのではないか。恋愛よりも年齢性別の差を問わない。更に例えば「愛犬」「愛車」のようなものもある。もちろんこれだけでは「友情はセックスのない恋愛である」という命題は矛盾しない。「抵抗」が恋愛への蒸発を防いでいると考えることができる。つまり、「もし相手が適齢期の異性ならセックスしたいだろう」という仮定を置くこともできる。「あとX年若ければ…」というやつだ。しかし不自然さは残る。

もう一つ、リンク先の記事にもあるが、恋愛は1対1の対関係であるが、友情は排他独占的ではないではないか、という疑問が湧く。これに対して「スワッピング」という恋愛形式を認めればよいとしている。しかし、現代日本では特殊であることは否めない。それに国家が法律で重婚を禁止しているので、結婚への移行を捉えにくくなる。

さらに、片想いは恋愛の初期段階としては普通だが、一方的な友情というのは少し違和感がある。その上、友情が対称的関係なのに対して、恋愛は性別非対称である。男女間での行為の能動性には方向性がある。特に性関係に注目すると、男から女の需要の方が、女から男への方向よりも超過していると思われる。共同性の上に相互性があるので、友情は友愛・博愛(「自由・平等・博愛」の博愛)に近い気がする。

しかも、恋愛には表裏構造があるのではないか。友情に裏表はない。恋愛関係は恥ずかしいと隠すことがあるが、友情関係はその必要が元からない。もう少し言うと、恋愛のネガティブな側面が捉えられない。「恋は病」「恋は魔法」という恋愛状態の盲目性や、更に「三角関係」のようなドロドロした人間関係のことだ。友達になってもらおうとストーキングしたりしないだろうが、それは単なる熱エネルギー不足なのだろうか。

そもそも、水−水蒸気モデルからすると、定義上つねに恋愛が友情よりも温度が上回っていることになるが、恋愛より熱い友情を想定するのは困難ではない。例えば恋愛より友情を取る場面だ。まあ気圧によって沸点が違うとか、モデルの延長で対応できなくはないかもしれない。

ただ、友情関係から恋愛関係に発展した場合、恋愛関係から友情関係に戻りにくいという不可逆性はないだろうか。もっと言うと、恋愛関係の中でも初恋の状態に戻るのは困難だ。これは水蒸気と水の相転移とは異なる。この点についてだけ言うと、化学モデルで考えるなら、例えば燃焼の現象として捉える方向もありそうだ。つまり、「恋の炎」は燃え尽きる前の状態に戻るのが難しい。

ここまでの結論としては、そのような多くの疑問が生じるために、包含モデルと水モデルを採用しない。しかし、単にモデルと現実との違いを指摘するだけの「対案のない批判」には終わらせたくない。モデルは常に不完全である。そこで、別の新しいモデルを考えよう。次の記事で説明したい。