匿名補完計画

もし2ちゃんが実名制だったら、あまり面白くならないだろう。固有名は長期的な信用と表裏一体だから、現実の生活に影響すると、保守的な発言しかできないからだ。だが、単に旅の恥は掻き捨て的な無礼講の面白さだけではない。それでは、誹謗中傷できるから使っているのだ、という凡庸な2ちゃん観に留まる。もちろんそれも要因の一つだろうが、匿名化で個人の枠を超えるところに、ネットメディアの特徴がある。どういうことか。

一人の作家が複数の文章を書くのではなくて、一つの文章(スレッド)を多数の名無しが書く。すなわち、匿名化によって、名無しAが書いたネタを名無しBが、動的に継承する構造が出現する。例えばVIPなら「内藤ホライゾン」やツンデレ関連の新ジャンルが典型的だが、元々コピペや顔文字全般にそういう継承構造がある。一人の単発の書き込みに終わらず、断片的なレイヤーが重層化することで面白くなる。

もしこれが実名なら、特定の人物を嫌うポリティクスが流れを断絶してしまう。あるいは作家が書くと、作家性やオリジナリティや完結した世界が大事である、という発想がここではかえって障害になり、十分に連帯的創作ができない。

固有名が時間的存在なのに対して、名無しは空間的存在である。すなわち、分割不能の(individual)原子論的単位が契約するのがモダンな共同体だが、それに対して匿名空間では、全体論的なコミュニティが先にあって、そこから個々の名無しが分化してくる。要するに、近代的個の代わりに、全体論的な補完のシステムがある。

無数の同人が割拠するコミケの二次創作も継承の構造だし、p2p共有ファイルソフトにおいても、ファイルが更にキャッシュに分割され転送されていく。あるいはまたWeb2.0の文脈で言えば集合知のような概念に近いのかもしれない。昔はなかったのか。例えば伝統芸能にも襲名のような継承があるだろう。しかし、高速通信による速度の変化が質を変えている。どう違うのかというと、前近代的な個を超える伝統的継承は、マクロレベルで成立するのに対して、今まで見てきたような継承構造はミクロレベルで成立するという違いがある。

ところで、近代的な大きな物語大文字の他者の概念が凋落したから、他者性さらには人間性も失われるという考えがあるが、ここではそうは捉えない。むしろ微小な記号の差異に他者性が潜在していると考える。大雑把なイメージとして喩えると、スーパーコンピュータの時代からユビキタスコンピュータの時代へという感じだろうか。21世紀の人間性というのは遍在的なのである。

本当にそうか不安に思うかもしれない。例えば、ネットは視聴覚的刺激で満たされているために、神経的なレベルで消費するだとかデータベースを消費するだとか。しかし、例えばブログの読み書きは虚構で、サーバにある1-0のデータや、タイプしモニタを見る脳の方が現実だという階層構造としては考えない。ブログを読み書きするという全体の現象も、それを構成するハードウェアとしての通信回線や神経回路も、どちらも同じ現実の相なのである。