萌えにもロングテールの物語性がある

萌えとロングテール

メタ的な快楽的差異だけがあるのだ、無意味万歳って話ですよね…(^^;
作品に物語としての意味を見出すべきだという論説に「メタ的差異の無意味万歳」
という意見を出すのは…、う〜ん、噛み合ってないような……。

世界全体=物語派←→世界の一部である人物=キャラ萌え
人物の全体=キャラ萌え←→人物の一部の特徴=属性萌え

 こう書いてみると極めて当たり前のことでしかないのだが、視野の広さ、見ている範囲の違いは歴然としているといえよう。


それがですね、萌えは無意味だとか視野が狭い、といった常識的な思考をひっくり返したのが、前のエントリなわけですよ。でも前回ちょっと硬めに書いたら、あんまりブクマも付かなかったので、もっと平たく言いますが、なぜ萌えがインテグラルでありうるのか。それは萌えをロングテールとして見ると分かります。


大雑把に言うと、前世紀(末)に地殻変動が起きて、山の頂上が低くなった代わりに、海面から平地が出現したので、作家性だの物語性だのの体積は、実は変わってないんじゃないか、という話なんです。それはゼロサムの関係ではないけど、高さ(一つの作品を奥深く読む)から広さ(多数の作品を幅広く読む)に視点を変えないと見えてこないんです。


認められるのは(原作の)物語だけで、(二次創作の)キャラ萌えに意味はないよ・視野が狭いよ、というのは、リンクはトップページに貼れという様なことと同じ位相だと私は捉えているのです。今や二次創作やキャラグッズの断片から見るのは通常の事態なのです。無断リンク禁止関連ではてブが盛り上がったりするけど、メディアコンテンツに関しては、わりと保守的な見方が多いのかもしれません。


ただ塵も積もれば山になるという量的なことじゃなくて、質的な変化にも少し触れておきましょう。キャラにも物語性があります。例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』における長門は、どうみても綾波を継承しています。そこで、エヴァの物語の記憶がついてくるんです。これはサイトを見るときに画像を他のサーバから呼ぶようなことでしょうか。作家主義的にはサーバの名義で区別するんだけど、キャラを通じて表面的に見ることでかえって一つの世界をインテグラルできるのです。属性萌えにしても、検索エンジンである単語で検索するとサイトが並ぶように、インテグラルしています。

キャラとパターン

 いわゆる「物語」や「世界」を総体として楽しむ読者にとって、それはあまりにも偏った見方であると感じられる。なぜなら、物語派は、登場人物のそれぞれに感情移入し、多くの登場人物の視点で見ていく。その切り替えができず、ある固定された登場人物の立場でしか物事を見ない。それがキャラ萌え的読み方であるように感じられるのだ。
絵文録ことのは


もう少し補足しておきましょう。ある人物に感情移入し過ぎると、作品全体の物語が見えてこない、ということがあるとしても、ここではそれを反転して、ある作品世界の枠に限定されると、ジャンル全体のキャラ像が見えてこない、という事態もあると考えるのです。一つの作品を違う角度(人物)で見ることと、多数の作品を一つの面(キャラ)で見ることの対です。

 キャラクター造形がパターンに支配されている以上、ラノベには属性重視の傾向があるといって差し支えないように思われる。


「キャラクター造形がパターンに支配されている」とありますが、パターンができているために、本来の自由な人物造形に比べて、創作の幅が狭くなってしまっている、というような見方はよくあります。でもここではそれにも嫌疑を差し挟みます。必ずしもパターン=マンネリ・パターン=底が浅い、という図式ではないのです。もっと一般的に言うと、ルールがない方が豊かになるとは限らないのです。例えば、サッカーのオフサイドとか、株式市場のインサイダー取引の規定は、ゲームが単調にならないためのルールでしょう。もちろん、無意味に細かい校則のように、不自由になるルールもあります。


だから、パターンが存在するからマンネリだ、ではなくて、規則の範囲内で不規則に振る舞うという、いわばカオス的な自由が作品に求められる、ということでしょう。そこで成功する作品もあれば失敗する作品もあるし不出来なルールもあるでしょうが、そのカオスの地平自体は確保しておきます。そしてキャラは、ストレンジアトラクターのように、無秩序な断片に対して再帰性をもたらすのかもしれません。


もちろんキャラ萌えが、誰々が好きというミーハーな浅いレベルに留まることもあるでしょう。その方が多いでしょう。しかし、物語読みが単なる見当外れな深読みのレベルに留まることもまた、よくあることではないですか。昔は物語を深く読めたというのも、無検証に信じていいものか。確かに最近の萌え系アニメ(に限らずマンガやギャルゲやエロゲやラノベメイド喫茶や…)は、粗製濫造気味ではあるけれど、「昔はよかった」的なよくある話には、それよりもっと飽きているのです。といって、単なる現状肯定がしたいのではありません。ネットやコミケのようなメディアの進歩によって開かれた、新しい見方の可能性を探りたいのです。*1

*1:ところで私自身は、「アニメ雑感」などで極力自らのキャラ萌えのみで語らないようにしてるのですが、それとは別の次元で、キャラ萌えの批評性を擁護する立場を取ります