キャラを通じて作品群をインテグラルに見る読者性=萌え

立体

Something Orange

(…)このようにキャラとキャラの関係性をえがくだけで無限に新作を生み出していくこともできると思う。

 しかし、それは、それだけでは「物語」ではない。物語未満の何かである。そういった複数の関係性を収斂し、ひとつの方向へすすめて行く指向性があってはじめて、そこに物語が生まれる。

 つまり、「キャラ萌え」とは作品の一要素なのだから、それを作品から排除してしまった時点で、既に「トータル」で作品を見れなくなっているのではないか。

たとえ「ストーリーとか作者の考え方とか、それ以外のディティール」を完璧に把握できていたとしても、「キャラ萌え」という要素を「抑圧」していれば、それだけで作品を十全に把握できていないということもありえるはずだ。


ロジックの整合性から言うと、(自ら主張するように)キャラのみでは物語未満なのだから、そういう「木を見て森を見ず」(キャラだけ見て物語を見ない)の現象を批判したとしても、それがすなわち木を見てはいけない(キャラ萌えの抑圧)、ということにはならないのではないか。しかもそれだけではない。


(優れた)作品は立体的に出来ており、人は同時に全ての面を見られない、と捉えることもできるだろう。その場合、そもそも同時にトータルに見ること自体ができないのである。しかし、時間を掛ければ可能になるだろう。何回も見ると、最初はキャラだけに注目していたのだが、しだいに作品のディテールも見えてくるようになる。よく名作の条件の一つに何度も鑑賞できることが挙げられるが、それは裏返せば一度の鑑賞では全てを同時に見渡せないように、作品が書き割りではなくて立体的にできているということでもあるのだろう。


キャラ萌えだけに駆動された鑑賞者は、作品を別の角度から見ることをしないし、飽きればまた他の流行を追いかける。そういう消費的行動に対して、(竹熊たちのような)前世代のオタクは批判するのだろう。これは資本主義批判だとか他人の趣味に難癖を付ける、といったこととも異なる次元の問題だ。単に作品の表面を見るだけでなく、側面や裏面も見ることで、はじめて立体的な作品の全体像が見える、その全体像を見ていない、というのだろう。従って「キャラも作品の一部」というだけでは、反論になっていないのではないか。

多重平面

 いったい「キャラ」とは何なのか? そして「物語」とは何なのか? いま、前世代を縛っていた「抑圧」から解放されたぼくらには、それを語る言葉があるはずである。


しかしこれで終わっては、「今の萌えオタはキャラだけ追って作品のテーマを見ない」という、あまりに凡庸な批判で終わってしまう。更にもう一歩先に進んだ考察を展開する必要がある。ここで、「トータル」な見方は実は二つあるのではないか、という提案をしよう。立体的トータルと、多重平面(レイヤー)的トータル(インテグラル)の二つだ。これは実在物の発見ではなくて、あくまで単位の提唱である。そこで「キャラ」という曖昧な言葉もここで再定義する。ただし、さしあたってこの記事でのみ通用する定義であり、排他的な正しさを主張するものではない。では次で定義しよう。*1

  • 登場人物
    • 作品ごとのプライベート単位。一つの作品の外部に適用することはない。二つ以上の作品で同じ登場人物は出ない。ただし、シリーズものは連続した作品と見なすことができる。なお、人格(行為の主体)を有していれば、人間でなくても構わない。
  • キャラクター
    • 二次創作が成立するローカル単位。複数の作品で別々の登場人物だが同じキャラクターだということが可能になる。二次創作系の外部にまで適用することはない。つまり違うキャラクターを描いてしまったら、ここでは新しい一次創作のキャラクターと見なす。
  • キャラ
    • ジャンル全体で流通するグローバル単位。作品や二次創作の外部に適用できる。レイヤーのように一人の人物に対して重層的に構成することができる。この概念によって「違うキャラが入っている」という指摘が可能になる。


この概念の導入によって何が説明できるのか、早速解説しよう。もし登場人物のレベルしかなければ全ての作品が個別の一次創作になる。キャラクターのレベルを設定することで、二次創作という概念を捉えることができる(世界観のような人以外の継承もあるが、ここでは人物で代表して省く)。そしてキャラのレベルに至って、萌えが生じるレイヤー構造が見出せる(ここで言う萌えはキャラ萌え)。


同人誌なんてみな同じに見える、という批判がよくある。現代人から見たら浮世絵だって(土偶や埴輪も)みな同じに見えると思うが、それはともかく、この批判にも関わらず、コミケは巨大なイベントになっている。なぜ薄くて割高で模倣ばかりの同人誌を売って行列ができるのか。ここで、商業では禁欲されている性表現が強力な動機になっていることは否めない。だがそれだけに限定すると、一般向け(健全)も売れているサークルがあることまでは説明できない。


キャラクターを共有している、というレベルにおいては、確かにみな同じである。正確に言えば読者は同じと認識する。同じでなければそもそも二次創作として成立しない。だが一つには、登場人物のレベルで必ず個体差がある。例えば、単に絵が原作より流麗であるということでも売れる動機になる(ひぐらしとか)。


もう一つは、キャラのレベルで違いがある。「このセイバーは腹黒キャラが入ってる」「このハルヒは天然キャラが入ってる」といった違いが出てくる。そして、萌えはこのキャラのレベルで成立する(燃えはキャラクターのレベル。また通常の好悪・善悪・上手下手は登場人物のレベル)。キャラは複数の作品で共通した概念だから、作品単体のみでは萌えは発生しない。脳内の仮想レイヤーでもいいが、とにかく作品の外部記憶への拡張が必要になる。行間やコマ・セルの間に動きを感じるように、作品を超えたレイヤー間にアニマが生じるのである。

インタラクティブインテグラ

最後に、前半部の「トータル」に作品を見るという問題はどうなったのか、まで論じ切ろう。キャラに萌えている間は、確かにトータルに作品を見ることはできない。しかし、萌えによって「トータルに登場人物を見る」ことはできる。なぜなら、そもそも個々の作品の登場人物をグローバルに見たものがキャラで、レイヤーから萌えが生じると、先に定義したからである。


確かに作品をトータルに見てはいないだろうが、キャラを通して作品群をインテグラルに見ているのである。一つの作品を違う角度で見るのではなく、むしろ多くのレイヤー(作品群)を一つの面(キャラ)で見ているのだ。さらに、作品をトータルに見るというときに、実は作品だけしかみておらず、二次創作も含めた作品インタラクティブな作用までは見ていなかった、ということなのだ。


古典的な作家主義からすれば、単に劣化コピーの誤差にしか見えないような断片的な差異を、市場を横断しゆらいだまま統合して、むしろそこに一番の作品性を見出すという風に、この統合性は古典的なそれに対して反転した構図を描いている。森より大きいジャングルを見る見方だとも言える。もちろん、古典的に作品をトータルに見る見方からすれば、くだらないといって切り捨てることもできるだろう。


しかしここではそうは考えない。市場が成熟し多数の作品に触れる機会ができることで、内容を取捨選択し補完する。その媒介がキャラであり、キャラが現れる立ち位置の違いで生じる位置エネルギーが、萌えの原動力になる。そして今やある意味で、作家性は読者にもあると言えるかもしれない。一つの作品を物語を通じてトータルする作家性から、多数の作品群を萌えキャラを通じてインテグラルする読者性へ、という変化なのである。

*1:リンク先でも言及されている『テヅカ・イズ・デッド』でもキャラの定義をしている