「いじめ」の暴落論

言語市場としての社交空間

「いじめ」とは被害者に対するコミュニケーションの価値が暴落した状態である。現実の市場でも暴落や恐慌などが起きるのだから、自由なコミュニケーションがある限り、必ずいじめは発生する。従って「子供を自由に育てればいじめは起きない」「子供たちが積極的にコミュニケーションすればいじめは起きない」という思考は転倒していると考える。コミュニケーションがある程度自由だからいじめが発生するのである。


それでも、コミュニケーションの自由は必要だと考える。現にわれわれは、自由競争の社会を選択しているのだから。学校の中にそこらじゅう監視カメラをつけて、コミュニケーションを計画的なものにするのには反対だ。しかしだからといって、競争の結果のいじめがやむをえないともしない。市場が暴走しないよう、何らかの修正が必要だと考える。


ここで、「教師には限界がある」というタイプの主張もよく聞く。確かに学級崩壊など他の問題も抱えているから、クラス全体を把握しきれないのだろう。しかしそれでも構わない。コミュニケーションを逐一監視していじめの発生をあらかじめ防ぐ体制を「大きな学校(教師)」とすれば、ここで考えるのは「小さな学校(教師)」である。コミュニケーション市場に対する干渉は小さいが、しかし最低限のセーフティネットを保証するのが重要である。


また、「いじめられる側にも原因がある」という主張もよく聞く。しかしそのことを「いじめられる側にも責任がある」ということに短絡してはいけない。コミュニケーションが暴落するきっかけはあるだろうが、一度価値が落ちてしまうと売りが売りを呼ぶ(自分もいじめられるから消極的に徒党を組む)。つまり、負のスパイラルに入るとどうしようもないのだ。


結局どうすればいいのか。つまり、いじめられてコミュニケーションが破産したときに、立ち直って再挑戦できるようにすればいいのである。被害者が破産宣告したときに、コミュニケーションの債務の過剰な取立て、すなわち、生命保険に入って首をくくらせるような野蛮な取立てを防がなくてはならない。これは有限責任の原則にほかならない。


いじめられている者には居場所がない。だから必要なのは、学校の市場でコミュニケーションに失敗した者を受け入れる別の学校や、更に学校以外のオルタナティブな場所である*1。生徒のために学校があるのであり、学校のために生徒がいるわけではないから、何が何でも無理に全員を学校に詰め込む必要はない。いじめ事件が起きるたびに土下座しても何も変わらない。


ちなみに、オルタナティブな場所は、予算をつぎ込んだ立派な組織を構える必要は全くない。コミュニティを再生産したら同じことになってしまう。通信制の教育制度などが分かりやすいが、既存の組織と同じ枠組でなくても構わない。


整理すると、コミュニケーションの不足からいじめが起きるのではない。むしろコミュニケーションの過剰からいじめが生じる。今の中高生の事情はよく知らないが、どうも同級生から叩かれないために、答えを知っていても手を挙げないなどの流儀や作法があるらしい。官僚や政治家ではないのだから、そんな過度の同調圧力は不毛である。いま求められているのは過剰なコミュニケーションの負荷分散の技術なのだろう。

*1:現状でもあるという意見があるかもしれない。しかし真偽は確かではないが、例えば転校先の学校に「こいつはいじめられていたからそちらでもよろしく」といった送り状さえあるらしい。立派な建物はいらないが、そういう陰湿な環境をなんとかしなければいけない