物語的弱者に転落する主人公たち

月初めということで、基本に戻って考察しよう。ふつう「主人公」は、「主」人公なのだから物語の中心にいるはずだ。ところが最近、ある種の物語ではドーナツ化現象が起こっている。そこではむしろ、主人公は活躍する機会を奪われているし、読者の感情移入もしづらい。


例えば、最近のアニメを見てみよう。『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公キョンは、やたら語りがくどい。『Fate/stay night』の主人公衛宮士郎はやたら死にまくる。『ひぐらしのなく頃に』の主人公前原圭一も最初の鬼隠し編ですぐ死ぬし、物語と読者にとっては「存在自体がイカサマみたい」だろう。他にも『NHKへようこそ!』はひきこもりだし、『ゼロの使い魔』は「犬」だ。


ここで特徴なのは、主人公の弱体化に反比例してヒロインが強力になっていることだ。いわゆる「ツンデレ」型ヒロインが対置されていることが多い。涼宮ハルヒ遠坂凛北条沙都子、ルイズなどは非常に典型的なツンデレの振る舞いをする。そこにセイバーも含めてしまって構わないだろう。また、ヒーロー(英霊)がヒロイン=セイバーの方で主人公は補助という構図は、『ガンパレードマーチ』を思い出す。


パッとしない主人公とツンデレヒロインの組み合わせは(最近の萌え系コンテンツでは特に)よく見かける。しかしここで、「現実の社会で女が強くなったことを反映している」などという見方をするのはいかにも新聞的な発想である。確かにそれもあるだろう。が、その意見に新たな驚きはない。更に理由を考えてみよう。


もう一つ、ラブコメの主人公がパッとしないことが関係しているだろう。何も取り柄がなくてもモテモテでハーレムなのがラブコメだ。とすれば、美少女が売りの萌え系コンテンツでは、多かれ少なかれその血を受け継いでいるのではないか。しかしこれも平凡な主張に過ぎない。もっと核心に踏み込もう。


ここまで見てきたように、特定のジャンルでは、主人公が背景化している。それには、ストーリーの興味がテーマからモチーフに移っているという構造的原因があるのではないか。どういうことだろう。例えば『ドラえもん』におけるのび太はダメ主人公の典型だが、その「ダメ」は、ドラえもんひみつ道具を見せるための「小道具」なのではないだろうか。


Fateは英霊の召喚、ひぐらしは雛見沢の現象に、作品の面白さがある。もちろん登場人物の過去が語られたりするのも楽しみではあるが、どちらかといえば作品の重心は人物よりも設定の方に掛かっている。もう少し細かく補足すると、人物より人物「間」のコミュニケーション、およびその方法(例えば「令呪」まで含めて)に重点が置かれているとも言える。


Fateひぐらしも途中までの展開を見ると、圧倒的に「システムの一人勝ち」という印象がある。誰が誰に勝ったとか負けたというのは偶然的な事象に過ぎず、真の勝利者は登場人物たちの運命を翻弄する、聖杯戦争や雛見沢という「場所」なのだ。言い換えると、舞台で主役を演じるのは今や舞台そのものなのである。