自分は無価値、他人がつらい、という心理
自分で決めて
上記は個人的な体験を綴っていながら、普遍的に共感できる物語になっている。
他人に負担をかけることが出来ない。
自分が無価値だと感じるので、他人と接するのがつらい。
生きてることを、無条件に喜んでいてくれた。
しかし、「無条件の生の肯定」をする人に出会う。
自分は「他人に何かしてもらう価値が無い人間」だと思っていたし、何か「得」「利益」がないと、他人は私と一緒に居てくれないと思っていた。(…)もうそんな奴らとは、手を切る。要らない。そいつらは友達でも何でもない。
利益のような外的条件によって左右されるだけではなく、内在的な信頼で結ばれた固有の人間関係を望む。すなわち、「何物にも代え難い」絆があるのが親友ではないかと考える。それはまた、他者を利益を満たす手段としてだけではなく、それ自体が価値がある目的として扱うことでもあるだろう。
自分で決めて自分でその責任をとる。
利益のような機械的な因果関係で行動を決定するだけではなく、「自らをその由」とする。つまり、自由に決定し、その自由の責任から逃走するのを止める。その倫理的な地点に至って、はじめて主体は自己を承認することができる。それが<自分で決めて「イエス」>ということなのだろう。ただしその自由は、どこかにそれが可能な場所があるわけではなく、常に現実で実践することでしか見出されない。