コミックマーケットのロングテール説

イントロ

コミックマーケットコミケ)で販売される同人誌のほとんどは、商業誌より割高で技術的にも見劣りする。そこでこういう説明が出てくるだろう。放送では見られないアニメなどのアダルトなシーンが見られるから高くても買うのだと。この「エロ本バザー」的説明はだいたい当てはまっているが、もちろんそれで全部を説明しているわけではない。コミケの同人誌のすべてが成人向けではないし、創作オンリーのイベントもある。


言ってみれば、この説明は「ビデオデッキはエロの力で普及した。インターネットもエロの力で普及した。コミケもエロの力で普及した…」というような大雑把な話だろう。それは間違ってはいないだろうが、ここではそこから先の話をしたい。他のメディアと何が共通して何が違うのか。これからどんな風に発展する可能性を持っているのか。ただ「エロは売れる」というだけではそれらが見えてこない。そこでコミケロングテールの視点から説明しよう。

コミケ・ロンテ

商業市場と重ね合わせて見ると、コミックマーケットロングテールの部分に相当すると考えられる。壁サークルは数千部を売り捌くだろうが、それでも商業市場から見ればまだテールだろう。だが、そのテールを寄せ集めてみると、かなりの規模になってしまう。ロングテールが成立するのはなぜか。アマゾンの場合にはオンラインで売ることによって経費を削減しているが、コミケの場合は、一般入場者とサークル参加者の大部分が、商業市場の相場を度外視することで成立している。その動機は前述のようにエロであってもいいし、コミュニケーションであってもいいし、フェティシズムでもいい。


よく「マンガ(アニメ・ゲーム…)はつまらなくなった」という感想がある。それはどんなジャンルでもある市場の成熟化に伴う必然的な流れかもしれない。もっと単純に昔を美化しているという側面もあるかもしれない。しかし、ここでよくある話を繰り返しても仕方ない。もし、マンガ・アニメ・ゲームの変化を見逃して、その結果面白いことが見えていないということがあるとしたらどうか。例えば「突出した作家がいない」というのはグラフを縦に見たときのヘッドの高さを言っている。しかしグラフを横に見ればテールは伸びているので、平均を考えれば向上しているはずだ。


塵も積もれば山になる、という単なるコミケの塵山説を言いたいのではない。その内部には複雑な機構を備えている。例えば二次創作において様々な作品・キャラ・外部の事情に言及するのは、ハイパーリンクのような仕組みに似ている。ただし、ネットのリンクはクリックすれば読めるが、同人は知らないと分からない。作家主義・オリジナル主義的には、こうした参照を「劣化コピー」と見るかもしれない。しかし、進化コピーもありえるだろう。実際九割以上は劣化しているように思われるが、たまに「原作より似ている」という印象を持つことがある。そして、こうした世界は、著作権を厳格に適用するとすぐ崩壊してしまう。

コミケWeb2.0

今までロングテールの視点からのみコミックマーケットを語ってきたが、ハイパーリンクの話も出たのでより拡張して見てみよう。すると、コミケWeb2.0の思想を知るより先に実践していたように思えてくる。

  • ユーザ参加

そのまま。作り手と受け手が解離していない…のはコミケが掲げる理想で、実際はプロも企業も参加しているけれど、それはブログを有名人や法人(の担当者)が書いているみたいなことだろう。

オープンじゃなくて著作権を無視しているだけだけど、一つの原作の設定で多くの同人作家が描いているという点では似ているかもしれない。

既存のものを組み合わせるという意味では、二次創作、それもダブルパロディや複数の作品のMADは近いものがありそうだ。基本的には比喩に過ぎないが、元々マッシュアップは音楽から来ているので、そう遠く離れているわけでもないだろう。

多様性や独立性の条件を満たさないだろうから、たぶん正式には認められないだろう。それでも私としては、集団レベルの作家性というものを想定している。どういうことか、最後に示そう。

ネオエクスデス的作家性

同人誌一冊一冊を取り上げれば、確かに見た目も内容も薄っぺらい。しかし、例えば分量だけで見るならば、一人の作家が描いた原作の単行本十巻と比較するのは百人の同人が描いた百冊の同人誌になるわけだ。そういう集合的なレベルで見ると、十分厚いのではないかと思えてくる。ここでは一人の作家が色々な作品を描いていく、という作家主義的な視点ではなく、一つの作品・キャラを色々な作家が描いていく、という転倒した視点で見ることが必要になる。そういう多数の主体による補完は、このブログの言葉で言えば、ネオエクスデス的な現象だと言えるだろう。