映像を超えた20世紀小説

ウィンドバード::Recreation - 小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか?
色聴
言葉や音に色が見える――共感覚の世界
X51.ORG : 音の色、形の味、色の匂い - 共感覚とは何か
共通感覚論 (岩波現代文庫―学術) (書籍)


共感覚論の系譜かな。ランボーが母音に色を感じるとか言い出した辺りが有名ですね。つまり、日本語と英語の翻訳関係を絵画や音楽にも拡張したものですね。(文化)記号論では建築も衣服も言語として見るわけですが、まあ今では認知系・脳科学に回収されますか。文章から映像が浮かぶ人は右脳が活性化している云々とか。そろばん上級者はイメージで動かすみたいな。右脳=イメージは俗説ですけど。あとクオリアとか。


しかしですね、映像が思い浮かぶのは良い小説だと思うけれども、良い小説がみな映像的なわけではありません。しかもむしろ、(超)一流の小説は映像を超えようとしていたわけです。例えばジョイスとか…。メタフィクションとかも映像で表現するのはちょっと難しいですね。まあ普通のリアリズムをベースにした小説は想像できる範囲に描写を抑えて破綻が生じないようにするわけですが。


まず、そもそも言語というのは、視聴覚イメージの連続体をデジタルにぶった切ってしまって、そこで解像度が落ちますね。それから絵画なんかが現示的(空間的)なメディアなのに対して、小説は線条的(時間的)なメディアなわけです。だからその媒体形式に固有の表現をしようとすれば、映像とは別の道を行くことになります。


しかしそれは20世紀の話です。(20世紀末に既に兆しがありましたが)21世紀になると、小説…というか物語全般が平板になっていく一方で、CG技術の発展によって、映画は見たことのないイメージを創造し始めます。そしてまたその映像力はゲームが継承します。こういうのを東浩紀は「過視的」と形容しましたが、小説の過剰な描写で日常を異化するという手法が、映画に移ったのだとも捉えられます。