小説の「対話」

ついでだからこの際触れておこう。バフチンは(特にドストエフスキーのような)小説を「対話」の場所とした。この対話は「他者」との間でなされる。「他者との対話」というフレーズは好んで使われるが、日常生活ではなかなかお目に掛かれない。日常では共同体の間で空気を読み合い予定調和的に円滑にことが進む。


他者とは、差し当たっては外国人や子供を想定すると分かりやすい。家の中では靴を脱ぐだとか、1+1=2であるというような、共同体の中に入ってしまった者にとっては自明のことをいまだ共有していない相手である。


この意味で、アニメの外国人や子供や昔の人物や宇宙人や悪魔やその他の人々は少しも他者ではない。奇抜な意匠を装っていても、最低限の意味(物語)はちゃんと共有しているものを「異者」という。もっと簡単に言うと、サクラのようなものだ。TVでやっている通信販売の実演の客は他者ではない。マンガ○○学でのハカセと助手も対話をしていない。


かつてナンシー関が、料理番組の奇妙な独り言、すなわち料理に話しかける独特の様式に、日本人の心性を見たことがある。良くも悪くも、日本には対話がない。もちろん外国にはあるとは限らない。例えば北朝鮮にはたぶんない。発話のグループがたとえ何万人いても、予定調和でことが進めば、それはダイアローグ(対話)的ではなくモノローグ(独白)的なのだ。


それは、校長の演説のような建前を言っているだけなのではない。2ちゃんねるやブログでなされる罵倒は、本音を含んでいるだろうが、少しも対話的ではない。そこにトリビアを上からいくらまぶしたところで、本質的には少しも変わらない。ちなみにオタクも対話が苦手であり、約束事に基づいた(悪しき意味でのおおげさな)演劇的なものを好むだろう。


ここまで対話と言ってきたのを、「コミュニケーション」と言い換えても構わない。要するに事前に結果を決めず、意味が生成するダイナミックな過程をそう呼ぶのである。もちろん現実ではなかなかそういうことはない。


ところで先にアニメは他者を描けないといったが、もちろん例外的な作家や作品はある。最後にそれに触れておこう。まず、宮崎駿の超越者のイメージ、つまり「シシ神」から「カオナシ」への変化は興味深い。すなわち、コミュニケーション不可能な特権的存在から、コミニュケーションで全能たろうとする存在へと移行するのが面白い。


涼宮ハルヒの憂鬱」の場合は、ドンキホーテ型主人公を継承した異者の系譜だ。発話のレベルでは互いの意思がことごとく食い違うのだが、それによってむしろ、そのような発話の場そのものを持ち続けたいという、メタな欲望の輪郭はますます明確になる。これはつまりはツンデレ言語ゲームである。


ひぐらしがなく頃に」はどうか。原作ゲームの鬼隠し編前編、つまりレナの「嘘だっ!」が出るまでは、まったく対話らしきものがなく、擬似対話ばかりが転がっている。だからプレイヤーは退屈するのだが、ゲーム次第に事態の容貌は変わってくる。


ひぐらしが恐ろしいのは、バットで撲殺したりするからではなく(それなら「撲殺天使ドクロちゃん」と変わらない)、ラーメンの銘柄まで知られているから恐ろしいのである。つまり、前半の主人公である圭一の内面が、サトラレのように筒抜けであるからだ。しかもそれが被害妄想的な世界の幕を開ける。


ホームズ型の古典的ミステリなら、天才的な探偵が解を保証しているので読者はまだしも安心するのだが、ひぐらしはハードボイルド型に近く、事あるごとに圭一は、(それは誤解や捏造であることも多いのだがその誤配も含めて)コミュニケーションの失敗に苦しめられることになる。


ただし、ひぐらしの会話は対話と言っても、対等な立場でのそれではなく、むしろ神託のように極端に一方的なものである。レナたちヒロインがぼそりとつぶやくと、その一言で足場は根底から崩されてしまう。このような対話(あるいはそれを抑圧する)の暴力性は、テキストの長編化で単調になりがちなノベルゲームにおいて、非常に重要だろう。