オリジナリティ=感染力

最近の考察のあらすじ(今北)

萌えの流行以降の作品では成長物語が解体した、という見方へのアンチテーゼとして、「成長=コミニュケーション」という図式を立てました。成長の概念自体が変化しているのだと。「正義」などの大きな物語への一体化が成長なのではなく、むしろ個々の小さな物語を理解する=コミュニケーションが新しい成長の概念です。そこからFateひぐらしやエロゲギャルゲを概観してきました。そして今回はオリジナリティがどう変化するか考えてみます。

コミュニケーションで生じるオリジナリティ

発想を先に言ってしまうと、オリジナリティもコミニュケーションの枠組みで捉えてしまおうということです。どういうことか。大雑把に言うと、従来のオリジナリティというのは、他の者が真似できない=交換不可能な固有性のことを指すと思うんです。それに対して、記号の交換=コミュニケーションの中で生まれるオリジナリティというのもあると思うんです。「オリジナリティ2.0」と区別してもいいです。そして萌え文化のオリジナリティはそこにあります。


このオリジナリティ2.0を簡単に「感染力」「流行力」とでも定式化したいと思います。オリジナリティ1.0でのオリジナルというのは、「震源地」「爆心地」とでもう言うか、オリジナルが一番偉くて、コピー=偽物は全て劣化した派生物に過ぎません。しかし感染力の方では、別に最初の感染源が一番強力とは限りません。発信元ではありますが、そこで一元管理しているわけではない。これはネットで流行するコピペなどの現象を見るとよく分かります。


例えば「どうみても○○です。ありがとうございました。」とか、色々なコピペ(の一部)が流行っていますが、それ自体を単体で見ただけでは別にどうということもないと思います。「どうみても〜です。」と「ありがとうございました。」はごく普通の言葉でしょう。しかし原作の「どうみても精子です。」を知らなくても使える位に流行すると、原作から切り離しても独自性のようなものを感じるようになってきます。「りんごジュース」とか、ニートの坊主の人とか、他のものもそうです。

オリジナリティ2.0を自己批判する

ここで早速ですが問題点を検討してみたいと思います。感染力というのはつまり何らかの二次創作が生まれることを前提にしています。とすると、「他人が真似できるオリジナリティ」ということになります。何だか語義矛盾のような気がしてきますね。これに関しては、著作権のことを考えれば一瞬で解決します。オリジナリティのあるものを真似したらいけない、というのだから真似できるでしょう。


ここで対比しているオリジナリティ1.0というのは「複製芸術」以前のことを考えています。大昔はデジタル機器もなく、コピーを作るのはそう簡単なことではなかった。聖書もいまではホテルでも読めますが、活版印刷以前は修道士らがいちいち筆写していました。しかしそのうち文字はもちろん、絵や音楽も複製できるようになってきます。今ではふつうにみなが同じ音楽をCDなどで聴いています。昔はそうではなかった。


つまり、「他人が真似できるオリジナリティ」というのは、メディアの発達と切り離せないのです。リミックスや(二次創作)同人というのは、コピー・模倣に創作性をもたらそうとする試みです。もともとオリジナルはコピーではなかったはずなのですが、その二項対立の中間を行こうとするわけです。

生成するオリジナリティ

最後にもう一回、成長=コミュニケーション論を振り返ってみましょう。そこでの成長には特定の型があるわけではありません。事前に結論が決まってないからコミュニケーションなのですから。同様に、オリジナリティ=感染力論においても、感染が広まることによってオリジナリティが生成します。つまり、感染した後で事後的に感染源にオリジナリティがあった、ということになります。この事後性は何となく難題を孕んでいそうですね。


ひとつには、単なる影響力とどう違うのかという問題があります。これにはガンパレのようなろくに広告も打たれなかったし、メガヒットしたわけでもない作品を考えればいいでしょう。影響力はなかったけれど当時のコミケには感染したわけです。この感染力という視点で見ることで、オリジナリティがないと言われる萌え系の作品を分析していきたいと思います。