書きたいことがなくなってから本当のブログが始まる

製造ブログと流通ブログ

いわゆる「ブログ」には二つのタイプがある。
書くことがあるか、ないかだ。そして後者が、
WEB2.0保守本流になるだろうと思っている。
前者の「ブログ」とは日記の延長でしかない。


これを製造ブログと流通ブログに分けてもいい。
一定以上のアクセスを得るには大手ニュース化が
必要になるだろう。もちろん製造大手も存在する。
たけくまメモは一年で約500万アクセスがあるが、
しかし著名人がやっているものは比較できないし、
また販売物がある同人とかフリーソフトウェア
特別で、雑記に近い考察はそう多くは見られない。
(ただし男女は別。またアダルトとVIP等も別枠扱い。)


書くことがないブログは他のブログの記事を
ニュースとして扱いはじめる。これはいわば
ブログのブログ化、メタブログ化である。
他から入力された情報に重み付けをして
出力するというニューラルネットワーク
の回路を、それらのブログは形成する。


あるいは、オリジナルの記事を書くブログは
葉で、中小のニュースサイトは枝で、大手
ニュースサイトは幹だとも言える。光合成
行うのは葉なので、葉がなければ木(ネット)自体に
栄養(情報)が行かないが、重量(アクセス)
のほとんどは末端の葉以外が占めている。
(報道機関のニュースサイトは根に当たる。
葉の光合成にも根から吸い上げた事実が必要)

ブログは自動的なんだよ

文は人なり」というが、最初に人格があって、
そこから文章ができてくる、と思うのは自然だ。
しかし、逆に文章から人格を想定する面もある。
特に顔が見えないネットでは、その想像的な
側面が大きい。そしてこれは言語が思考を規定
するという、20世紀以降の言語観と関連がある。


素朴に書きたいことは出し尽くしたが、
はてブや他のサイトを見ているうちに、
そこに書かれた言葉自体が運動して、
自律的に新たな回路を形成する、
そうした創発性が現代ブログの動きだ。


ここで米光一成のブログ文章術を見てみよう。
伝説の文章術名コーチたちの極意とは!?

思ってたことを書いてくれる別の人がいる


多くの者が本論に入る前のオマケ程度のように思っているが、
すでに、これが本体、文章の戦術に先行する戦略なのである。


「思ったことを別の人が書く」さらには
「別の人が書いたことが思ったことだ」という倒錯の現象は、
ネット以外でも起きている。例えば同人における二次創作だ。
そこでは、作品の世界観を事後的に生成してしまう。それを
伝統的にはパロディの技法と呼んでいるが、もはや現代同人
には、パロディというカウンター力はなく、単に再生産する。

まったく新しい不思議な場で、ぼくたちは、文章を書いているのです。

集合的無意識

エクリチュールとでも呼ぶべき、主体の単位を超える
ネットワークは、メディアが発達する以前からあった。
例えばそれはカイヨワが考察したような遊びに見られる。
「しりとり」の原始的連想があり、「鬼ごっこ」という
感染の遊びがある。洗練された文化では、「連歌」があり、
近代に入ると、精神分析が転移を扱い、その末裔に、
連想から検索に移行したWWWがある。Google
ソーシャルブックマークトラックバックも、
結局はメディア技術によって「超進化したしりとり」とも言える。


HTMLからRSSが本体に、キャラクターからキャラが本体に、
原作から二次創作が本体になるように、ブログもまた、
リンクされコメントされるものが本体になる(はてブとか)。
ではそこでは動物化し作家性が失われてしまうのだろうか。
そうではない。一人一人はただ情報を中継しているだけだが、
ネットワークシステム全体としては作家性がある。
この分散コンピューティングのような仕組みには、すでに
マルチチュードとかスマートモブズという名前があるが、
それは名無しから人類補完計画まで同じようなイメージで、
ここでは天使的な作家性とでも名づけておきたい。


集合的無意識を表象する分かりやすい例は、
ゲームにおけるキマイラ的ラスボスである。
例えばFF5におけるネオエクスデス
悪は最初エクスデスとして、
一貫した主体として存在していたのだが、
無(意識)に呑み込まれて、
欲動の機械的な集積と化してしまった。
これは遠くは非人称化した多国籍企業
ような権力観と通底しているだろう。
(ただしFF6では逆になっている。
これは私には逆行のように思われる。
私なら最初にケフカを出して、
その後あの柱を登らせて、
最後にケフカに納まりきらない
三闘神を合体させて登場させる)
またこれを模したVIPのAAがあるのは興味深い。

ルイス・ウェインの猫

ルイス・ウェインさんの描く猫の変遷
ルイス・ウェインの猫
これはもちろん一般化できない例なのだが、ルイス・ウェインの変遷は、
そのまま今まで言ってきた変遷を辿っている。最初の頃の猫の絵は、
大正〜昭和位の時代感覚なのだが、後期は平成で通用すると思う。
シューティングのボスも後期の絵の感覚を共有していると思う。
例えば『ダライアス』のボスなんかは、機械の部品の寄せ集めで生物を描く。
マイナーどころも出すと、『Rez』のラスボスも部品の寄せ集めだ。


絵に注目してみよう。写実的な絵が抽象的・幾何的・装飾的に変化している。
非常に面白いのは、後期の絵がカオス理論におけるフラクタル図形のような形態に
なっていることである。そしてそれは、遠くはネットワークのブログに似ている。
昔「スキゾキッズ」というような言葉が流行して、すぐ廃れたのだが、
明確に反証されたところを見たことがない。驚いたことに、時代を経て
本当にそうなってしまったのである。それは人間が変化したというより、
ネットワーク(すなわちリゾーム)のシステム論的な性質から、
メディアの条件からそうなるのである。文が人を産むのである。

三匹の猫

整理してイメージするために、こういうカオス的な時代で、
ブログを書く指針を与えるために、三匹の猫の喩えを使う。


一匹目はチェシャ猫の笑いである。即ち概念の物象化である。
これは具体的には、コピペや擬人化において見られるだろう。


二匹目はシュレーディンガーの猫である。即ち観測の不確定性である。
観測者の観測ごとに異なるような文章が、必然的にネタにされやすい。


三匹目はルイス・ウェインの猫である。即ち形態の自己相似性である。
それは匿名の名無しという集合を一個の人格として見るようなことだ。


そしてそろそろ、この考察も幕を閉じなければならない。
この考察自体、書きたくて書いた例外的なものだからだ。