なぜエヴァは分かりにくいのか

前置き

ここでは、「メタレベルで〜隠喩として機能している」だとか、
いかにもブンガク的批評といった言葉は使わないことにしよう。


また、公式の設定だとか謎本の解釈だとかもスルーして、
ここではただ作品を見た印象からのみ語ることにしよう。


なぜなら、難解なエヴァを分かりやすく説明しようとしているからだ。
ただしエヴァの分かりにくさの原因を分かりやすくするだけではある。

エヴァはどこが新しかったのか

新世紀エヴァンゲリオン』は新しいアニメだった。何が違うのか。
巨大ロボットアニメで、主人公が熱血でないという点が新しかった。


しかし、主人公が葛藤するというのはガンダムでもそうではないか。
表面的な意匠はともかく、その点で新しくないのではないだろうか。


実はエヴァが分かりにくいのは、ライバルが不在だからである。
正確に言うと、ライバルからラスボスまで含めた敵役のことだ。


偏見だけで述べるが、例えば広井王子的・あかほり的な作品では、
非常に分かりやすい敵役・悪役が出てくるので目的が明確になる。


「お前たちの首、魔王様への手土産にしてくれる! ケ〜ッヒッヒッヒ」
と言う小男が出てきたりする(元ネタは『ノートルダムのせむし男』辺りか)。


エヴァにはそういった存在は出てこない。ガンダムのように人間同士も戦わない。
使徒は意図を持っているのかすらも不明で、自然現象のようなものかもしれない。


最終回近くでは、もはや「巨大ロボットに乗って敵と戦う」という根本的な目的
すら消失してしまうのだ。それはもはや犯人の推理を放棄したミステリのようだ。

分かりやすいエヴァ

「分かりやすいエヴァ」とは「きれいなジャイアン」のようだが、
敵役を配置した分かりやすいバージョンのエヴァを仮想してみる。


まず序盤で、カヲルを出してしまい、シンジのライバルにする。
パイロットとしてだけでなく、アスカや綾波を巡るライバルだ。


中盤では、トウジやケンスケと友情を育んだり、加持やミサトの元で
熱血的な、訓練に励んだりする。そしてカヲルと勝負する場面を出す。


終盤では、カヲルが実は敵だったとか、ゲンドウを乗り越える場面を出す。
そしてやはり、綾波が自己犠牲的に死んでしまう場面は欠かせないだろう。


最後の決戦では、使徒と一体化した人類補完委員会と対峙する。
「もはや我々は神だ!」などと言ってラスボス感を出してみる。


そしてシンジは、人間は不完全だけど、限られた命だからこそ
出会いや思い出が大切なんだ、みたいな台詞を放ってから戦う。


強大な力の前に負けそうになるが、カヲルかゲンドウの犠牲によって、
チャンスを得たりする。委員会に「やはり失敗作云々」とか言われる。


最終的には母親との回想シーンに入って、そのシーンを出た瞬間撃破する。
ラストは残ったアスカとペンペンを連れてなんか旅っぽいシーンで終わる。

ライバル論

ベタな展開(成長物語)にすれば分かりやすいが少しもエヴァらしくない。
敵・悪を倒すという目的が最初にあるのではなく目的を探すことが目的だ。


ライバルや敵役・悪役がいることによって、主人公のヒーローとしての
存在意義が出てくる。怪獣がいなければウルトラマンは必要ないだろう。


また、ヒロインはライバルと奪い合う三角関係によって存在意義が出る。
価値があるから奪い合うのではなく、奪い合うから価値が出てくるのだ。


現実の歴史でも、共同体が結束するときは常に仮想敵の存在がある。
政治は敵を発明する技術でもある。特に独裁的な体制ほどそうなる。


ライバルの存在とは、つまり自己と異なる他者を実体化させることで、
鏡を見るように対照的に自己の目的を教えてくれる。つまり影である。


エヴァ以降のオタク文化の作品は、総じてライバル的な存在の影が薄い。
それは単なる失敗ではない。他者への興味の喪失は時代と関係している。


紋切り型ではあるが、高度経済成長の頃までは競争が社会的に機能していた。
社会的というのは、経済的な面だけではなく、自己の承認のような面がある。

ツンデレ

エロゲやギャルゲでは、ふつう主人公と攻略対象ヒロインの関係は放射線状になる。
要はハーレムで、ライバルはいないか、またはいても必ず敗れるようになっている。


ライバルの影が薄ければ、物語の求心力も弱まる。妹や幼馴染と登下校で雑談する
ことがメインになってしまっている美少女ゲームは、実際かなり多いのではないか。


他者への興味の喪失と、知識型のオタから萌えオタへの移行は対応している。
妹は、近親であって他者ではない。幼馴染もそうだ。自己に近い位置にいる。


ここまでは確認に過ぎない。ここで言いたいのは、「ツンデレ」がその状況
への反動という面をわずかながら持っているところにある。どういうことか。


即ちこうだ。ツンデレの「ツン」はライバルで、「デレ」はヒロインではないか。
「ツン・デレ」とは、「ライバル・ヒロイン」という統合型のキャラではないか。


これは偶然ではない。「ヤマアラシのジレンマ」も「ツンデレのディレンマ」の
一種である。それにアスカや綾波は、ツンデレに大きな影響を与えたではないか。


セカイ系においては、自己にしか興味がないので、ライバルをうまく描けないが、
ツンデレというキャラを通すことで、拡散した状態ではあるがライバルを描ける。


これはやおいと裏表の関係である。つまり、やおいはライバルを同性愛化するが、
ツンデレは異性をライバル化するのである。ライバルの不在と代理の構造である。

追記

最後の部分の具体的な例は『カードキャプターさくら』である。
クロウカードを集める行為は、自ら蒔いた種で、悪役はいない。


そこで、ツンデレ少年小狼(異性)をライバル化するのだろう。
「男女の友情は成立しない」ので自然と恋愛に移行し美味しい。


また、小狼との競争が馴れ合い化した後は、エリオルが出てくる。
それと、アニメ版はメイリンが道化的ではあるが一応ライバルだ。


いまどき悪の化身は流行らないし、萌え系では敵が作りにくいが、
巧妙にライバルを設定することが、物語の強度を維持する方法だ。