ブログと改行の関係

文章論から改行論へ

ブログ文章術


あの素晴らしいぷよぷよ米光がブログ文章術の最初のテーマを改行にした
のだから、「そんなの侍魂の頃から知ってる」という指摘は無意味である。
しかも文章のスタイル自身に凝ってみせるのはブログだけの話ではなくて、
あの時代の最先端を行く『ファウスト』でも意識的自覚的に採用している。


大胆に定式化しよう。ブログ的な改行とは、行間を明示化したものである。
それは、文章の論理構造を、HTMLでマークアップするのと変わらないのだ。
しかもそれは、「(笑)」「w」やTVのテロップと同じ流れに属している。
流動的な成員に行間や空気を読ませることが難しいので、明示化するのだ。


生活形式を共有する共同体はコンテクストを共有する共同体でもある。
例えば「手紙をポストに入れてくれ」という文が自明に通じるときに、
「ポストは赤い」事は共通了解の事項で、だから省略できるのである。
しかし逆に共同体が無ければ、あらゆるマニュアル化が必要になろう。

改行論から空気論へ

ARTIFACT ―人工事実― | 「空気を読む」は「言論の予測市場」
行間を読むことと空気を読むことは密に連動している。
上のエントリから更に考察を進めてみることにしよう。

空気の構造 乙は空気が読める 乙は空気が読めない
甲は空気が読める
甲は空気が読めない


上図Aは明示的コミュニケーションがほとんど必要ない。
例えば年季が入った夫婦は、「おい」などで話が通じる。
B・Cは空気が読めない方が権力を持っているか否かで、
違ってくる。権力を持つ場合は、遠回しにほのめかすが、
持たない場合は、根回しが足りないと批判されてしまう。
Dは、コミュニケーションの場所をコミュニケーション
する必要がある。相手をどんな立場の人間として扱うか、
などのメタコミュニケーションが必要になってくるのだ。

空気論から同人論へ

そして、この空気を絶えず前景化するのが同人的なものである。
二次創作の技術は、空気を扱う技術だと言える。すなわち、
「○○」と「非○○」の境界線上にある「○○的なもの」を
いかに顕在化させるかが、パロディの技術というものだろう。


例えば『ひぐらし』はミステリという空気を大きくかきまわす。
もともとミステリ的なものは「ミステリに非ず」と言えば済む。
しかし、それを「ミステリでもあり、非ミステリでもあり」と
位置付けるから面白いのである。なんでもありではつまらない。


この「○○的なもの」という中間領域こそフロンティアである。
単なる同一のコピーでもなく、単なる無関係のものでもなくて、
部分的に共通した異なる断片群が非同期で繋がり機能している。
具体的には、同じキャラクターが違う絵や話で動くのが魅力だ。

同人論から時代論へ

ネオエクスデスをVIPのモチーフで改造したAAがあるが、
そもそも匿名的なネットは、ばらばらの人間が集まっている。
しかもそれを、名無しという一つの多重人格とも解釈できる。
異なる文章が繋がるハイパーリンクという形式とも似ている。


RPGなどのラスボス=超越者のイメージがキマイラなのは、
諸星大二郎の『生物都市』辺りから既にあったのだけれども、
更に遡れば、ピカソキュビスムが元ネタだと、私は考える。
ばらばらの断片がリミックスする、という文化の元祖である。

時代論からブログ論へ

大風呂敷を広げすぎたので冒頭のブログの文章術の話に戻ると、
ブログのトラックバックだって、異なる断片を接続する装置で、
検索、特にソーシャルブックマークも断片群の接続装置だろう。
ここでブログは単なる日記ではなく、リンクを持つものとする。


日記は単体で完結しえるが、リンクして他のブログにコメント
するというのがブログたる最低条件として、ここでは区別する。
そうすると、必ず異なる文脈に接続されていることになるから、
必ず誤解の余地があるのがブログの置かれた条件になるだろう。


改行に始まり、トラックバックソーシャルブックマークに至るまで、
全ては誤解に始まり誤解に終わるとも言える。いかに誤解を逆手に取って
利用するか。炎上から「あっかんべー」まで含めて、方法は多種多様だ。
単なるリンクだけのニュースサイトでなく、コメントをつけるのがブログなら、
異なる文脈とそこで生じる誤解の利用が、ブログのアルファにしてオメガなのだ。