なぜ「無断リンク禁止」がまずいのか
強制力を持たない「無断リンク非推奨」なら構わないけれど、法律か何かで原則的に無断リンクを全面禁止してしまうのは、ちょっとまずいことになると考える。なぜか。
確かに、匿名で誹謗中傷されてしまって不愉快だ、というマイナス面はあるだろうけれど、リンク自由のプラス面も、もっと評価されるべきだと思う。もしリンクが不自由だと、ある記事に間違いがあったときに、指摘できない弊害が出てくるのではないか。
例えば、報道の事実誤認や、技術系ならセキュリティ的なことで問題があるとか。そういうときに、リンクを許さないのは、全体の利益にならない。それでは文面を転載すればいいかといえば、今度は著作権の侵害で責められる。
もしリンク禁止になっても、h抜きの「ttp://」とか、検索語を書けばいいとか、すごくザルなものになれば、大して変わらないかというと、迂回するだけで閲覧者がガクンと減るだろう。ニュースサイトからリンクされるとき、ページの上の方に貼るか下の方に貼るかだけで、アクセスが違ったりする。
いや、そんなのはh補完のGreasemonkeyとか何かで、どうにでもなると思うかもしれない。しかしみんながギークなわけではなくて、現にGoogleよりYahoo、FirefoxよりIEの方がマジョリティなわけで、専門知識を持っていてもPC・Webのリテラシーが高いとは限らない。また、元々サーバサイドで弾くこともできるけど、リンクできなければ弾いているのかどうかも分からなくなってしまう。
あるいは、こう言うかもしれない。今でも「円天」みたいなものがまかり通っていたんだから、どうせ何も変わらないんだと。しかし、一つは、無断リンク禁止でもっとひどくなることが考えられる。リンクがなくても、対象のことは書けるから、おおげさかもしれないけど、抑止力みたいなものがなくなる恐れがある。
…とまあ、あまり深く考えずに書いたけど、無断リンク論争の歴史は長いので、こんな論点はとっくの昔に通過していると思う。ただ、最近はてな村でにわかに盛り上がっている話題みたいだから、一応書いておく。
文系だからこそ誤魔化して書いてはいけない
間違い探しのような文章
しかしぶっちゃけ、哲学知識がない「しろうと」に簡単に理解できるものではないだろう。
確かに私は単なる素人だから、高度に専門的なことを理解してはいないけれど、リンク先記事の間違い探しのような文章から、初歩的な間違いを拾い出すくらいは簡単にできる。記事は私の指摘をフォローしているつもりだろうが、相変わらず誤りをこじらせている。
そもそも、贈与が贈られた者にとっては負債でもあるので、贈与の連鎖が一般交換として成立しうるという論点は、モース(とレヴィ・ストロース)に見出せるのだが、近代的経済の等価交換(限定交換)に対して、際限なく拡張するのは勝手読みだろう*1。
それを連想ゲームのように膨らまして、何でもかんでも贈与と負債で説明してしまう。だいたい、贈与と略奪と交換といった基本的なことが混同されている。それを踏まえて、以下では引用のおかしい部分を指摘していく。
交換と他者論
マルクスは商品の交換を「命がけの飛躍」といい、交換する人の間にある断絶を指摘する。この断絶が現実界。柄谷はこの交換の断絶(現実界)を「他者性」と呼ぶ。
この短い文章の中で、間違いが折り重なっている。まず、「命がけの飛躍」の部分(だけ)は正しい。それは、何食わぬ顔をして書いているが、前回の記事で私が指摘したからだ。ところが、そのことには一切触れないどころか、前の記事で送ったトラックバックを削除している。そんな風に自分の都合の悪いところは無視して自画自賛している。
さて、マルクスが「命がけの跳躍」と言ったのは、商品同士の交換*2ではなく商品と貨幣の交換だ。しかも、交換する人の間ではなくて*3、やはり商品と貨幣の間を跳躍するのだろう。また、「この断絶が現実界。」と突然言い出すのはどうか。「現実界」はラカンの用語だが、そのように強引に結びつけてしまう。
そして一番問題なのは、柄谷が交換の断絶を他者性と呼ぶなら、犬や森は人よりもっと遠い他者だという、この後の指摘だ。人間よりもコミュニケーションが困難だという意味で動物が他者であるというのは、そんなことはもちろん柄谷もデリダも分かっている*4。だが、犬や森は(商品・貨幣の)交換対象ではないだろう。
柄谷が言うのは、交換は複数体系間でなければ利潤が生じないということだ。だから別の体系、異質な言語ゲームに属していることが他者性なのである。だいたい、自然に対して神のような超越者を立てて、それへの贈与が全ての交換に含まれていると見なすのは、(柄谷の言葉で言えば)どちらかといえば独我論的だろう。方法的な独我論で構成した他者には他者性がない、と「探求I」の最初に書いてあるではないか。
貨幣と価値形態論
この場合の経済学の彼岸を語るとは、簡単にいうと、経済学では社会の成員の経済的行為によって社会は成立しているということに対して、この社会の成員の一人として「神」(純粋贈与)を加える必要があるのではないかということです。(…)だからマルクスでいえば、剰余価値論ではなく、貨幣の非対称性であり、商品の物神性が重要なるのです。
神を社会の成員に加えて、貨幣に絶対性を与える、というような考えは、マルクスと全然関係ない。商品を物神崇拝するのは、労働間の関係を商品間の関係に、物象化して見ているからだ。マルクスは、価値の本質を労働に見ており、神で絶対化したりしない。
くどく言うと、「剰余価値論ではなく、貨幣の非対称性であり、商品の物神性が重要」などというのは、全く理解できていない。すごく雑に言うと、商品物神というのは、剰余価値(剰余労働)を倒錯的に錯覚して見ている現象だからだ。
しつこく繰り返すと、剰余価値とは別のところ(経済学の彼岸とか何とか)に、商品の物神性があるわけではない。もちろん、例えばボードリヤールだとか後の論者は、記号論的な商品のフェティシズムを語るわけだが、それはマルクスとは別の論点である。
自然状態と社会契約論
このような考えに近いものに、ホッブズの秩序問題を中心に語った「「資本」論―取引する身体/取引される身体」稲葉振一郎があります。
植民地開拓は当然に戦争の危険を伴うわけですが、外地、遠隔地のことですから、本国における秩序の解体には、少なくとも即座にはつながりません。やはりここで重視すべきは、こうした形での、空間的な外に向けての拡大も限界に突き当たった時に、一体どうなるか、です。
(…)つまり、もともとはロック的な状況――国家による強制なしでも何とかやっていける――にあったはずの社会の生産力が、いつのまにかホッブズ的な状況――国家による強制があるからこそ何とか秩序が成り立っている――に変化してしまう、ということです。
(「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書) pp38-39)
稲葉の『「資本」論』は、資本、それも労働力としての人的資本を中心に語っているのだが、資本や市場の概念を扱う前に、まず(私的)「所有」概念を検討するために、ホッブズ・ロック・スピノザ・ヒューム・ルソーらの、自然状態と社会契約の枠組を用いている。
その本の序盤で述べられているのは、植民地による拡大が限界を迎えたときに、ホッブズ的自然状態の概念が、(原始社会的なフィクションではなく)現実性を持つ可能性も出てくるという話で、前の記事で指摘したような、科学技術の発展によって、ホッブズ的自然状態が発生し、帝国主義・植民地主義になる、というような話ではない。
そして、稲葉は、外部の未開の土地がないホッブズ的状況と、それがあるロック的状況の違いを、例えばゲーム理論の利得表によって表現し、つまり経済学的に思考しており、神への贈与がどうこうという話は出てこない。だから、「考えに近い」ということはないだろう。ここでも我田引水になっている。
文系だからこそ誤魔化して書いてはいけない
このように元記事は誤読しまくりで、からいばりでこけおどしの酷い文章である。だが、誤字脱字が多く作文レベルで下手な文章で、生硬晦渋でムダに読みにくいのを、イワシの頭も信心からで、深遠なことが語られていると、読者は勘違いしてしまう。
(このように断言できるのは以前から指摘しているからだが)id:pikarrrは、読んだ本の字面から連想したこと*5を、その著者の意図として自分に近づけて、勝手に書く権利があると思っている。それが自由で創造的な文章だと思っている。もちろん違う。
そもそも、自らの考え単独で自立でき、引用先も正確に説明できた上で、車輪の再発明を避けるために、先人の研究・考察を引用・参照するのだ。だから、自分の思考と引用先が接している部分を正確に示す必要がある。それを、自他の区別なく、自分の文章の権威付けに使うために、反対のことを言っているのを、まるで同じことを言っているように、誤解させてしまってはいけない。
理系の場合、原理的には主張を検証できる。ただ研究施設・実験装置が必要な場合、一般人には難しい*6のだが、例えばブログにプログラムのコードを載せるといったことなら、動かなければ言い訳はできないだろう。そのように、機械が動くという客観性があるために、何でもありではなくて、最低限の健全性は保たれている。
文系の場合、予備知識がない人に対しては、無知につけ込んで好き放題言える。特にブログのような場所では、匿名性がありコストも低いので、いい加減なことが言いやすい。ラーメンとカレーのどっちが好きか、といった個人的なことならともかく、社会的なことについて主張するときには、適当さが時として害になりうる。文系だからこそ誤魔化して書いてはいけない。
「論理トレーニング」
- 作者: 野矢茂樹
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大学生に「次の文章を批判的に論ぜよ」などという問題をやらせると、必ずその主張の逆の主張を展開する。そうではなく議論そのものを批判しろと言ってもその意味さえわからない。(永井均・旧版の帯の紹介)
旧版が十年前に出版されて以来、地味なロングセラーで新版が出るに至った、初歩的な論理学入門書の名著。日本人は、上の文章にあるように、相手の逆の主張が批判だと思っている。あるいは、難解な表現をするのが論理だと思っている。論理的に書く・話すというのが、何をすることか実のところよく分かっていない。だがそれでは論理とは何か。少なくとも本書によると、言葉の使い方であるという。特に接続表現が論理構造の中核にあると捉え、それを基本に据えた解説をしており、その部分だけ読むだけでも十分価値がある*1。
接続表現というのは、「だから」「しかし」といった言葉のことだ。もちろん、そんな簡単な言葉の使い方はとっくに知っていると思うかもしれない。だが、何となく雰囲気で選び、文調を整える合いの手のように、接続詞を使っていないだろうか。そうではなく、「付加・理由・例示・転換・解説・帰結・補足」という論理構造を反映するように使うのである。そのことによって、自分が何を言いたいか、相手が何を言わんとしているか、といったことも明確になる。その意識と技術がなければ、書いている内に何が言いたいのかよく分からなくなったり、書いていないことを勝手に読み取って批判することになりかねない。例えば、ネットではそういう場面をよく見かけるだろう。
論理思考・ロジカルシンキング系の本は色々あるが、本書が最良だと思う。だいたい、日本人は相手を攻撃するか根回しで馴れ合うかの二択になりがちで、論理思考というのを相手を論破することに直結しがちだ。しかし類書と異なり本書は、むしろ論理の対話精神に根ざしている。すなわち、自分と異なる考えを持つ他者に対して、どこまで思考を共有できるか、正確な位置付けを行うことによって、創造的議論も可能になるという考えだ。だから、論理的な読み書きのリテラシーを学ぶには最適な一冊で、私も大きな影響を受けている。著者はアカデミックな書き手*2であるにも関わらず、文章がとても簡明かつ平易で読みやすい。そしてその明晰さは、自らの思想を実践しているのだろう。
ラノベ「ナイトウィザード The ANIMATION 柊蓮司と宝玉の少女 上巻」ほか
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