なぜRPGは世界を救う話になるのか

概要

なぜRPGでは、「勇者が魔王を倒して世界を救う」(以下、「救済図式」)物語になりやすいのか?

考察

RPGの救済図式

先に例外を挙げておけば、ローグライクのダンジョンRPG、オンラインのMMORPG、その他育成RPGなど、必ずしも救済図式でないものもある。しかし、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』を筆頭とする、コンシューマの大作RPGにおいては、救済図式が一般的だ。

ではなぜ、家庭用大作RPGのストーリーは、たいてい救済図式になるのか。簡単に説明してしまえば、ミステリが殺人事件を主に扱うのと同じで、プレイする動機が強い方が都合が良いということだろう。これだけで終わりにしてもよさそうだが、さらに深く追求してみよう。

RPGのレベル上げ構造

標準的なRPGは「レベル上げ構造」を有する。すなわち、敵を倒して経験値を溜め、キャラクターのレベルを上げることで、ゲームが進行していく。そこで、長く続くレベル上げを飽きさせない動機と、そもそもレベルを上げて何をするのか、という目的が必要になる。

救済図式は、この動機と目的を満たすのにうってつけだ。最後に控えているラスボスを倒すまで、ゲーム世界の諸問題が解決しないから、プレイヤーの動機を持続させられる。また、ラスボスやそこに至るまでの中小ボスとの戦いで勝利することが、レベルを上げる目的になる。

RPG弁証法的構造
  • ラスボス
    • 中小ボスA
      • エピソードa
      • エピソードb
      • エピソードc
    • 中小ボスB
      • エピソードd
      • エピソードe
      • エピソードf


RPGのシステム面におけるレベル上げ構造は、シナリオ面における「弁証法的構造」と、密接な関連がある。どういうことだろうか。

ドラクエ4』を例に取れば、第一章のラストではライアンが勇者を、第二章のラストではアリーナがデスピサロを、それぞれ探しに旅立つ。そして第五章の冒頭では、勇者が冒険に出発するきっかけが描かれる。

上の階層図のように、伏線を含めた個々のエピソードは、ラスボスを倒すというテーマに、最終的に収束するのだ。たとえば、デスピサロを倒さないと、サントハイム城の人々が戻らない、というように。もしラスボスが不在なら、話(のオチ)がバラバラに散逸してしまう。

つまり、救済図式であれば、数多くのエピソードを、ひとつのテーマ(打倒魔王)に関連付けられるので、話が散漫にならずまとまりが出るし、クライマックスも盛り上がるのだ。

これを多少大げさに言えば、RPG内の歴史は、勇者と魔王の対立を軸に、弁証法的に発展していく、ということなのである。

RPGイデオロギー

別の捉え方をすると、「魔王を倒さなければならない」「魔王を倒す救世主(勇者)が出現する(はずだ)」というのは、もちろん虚構の約束事だが、虚構内においては「イデオロギー」である。

だが、話の最初から一国の国王が勇者を支援する(たとえば『ドラクエ』1〜3)くらいであるから、RPG世界の住人にとってそのイデオロギーは、それが当然だと思うほど強固なものだ。

話はゲーム外に飛躍するが、「冷戦イデオロギーの崩壊」「高度成長神話の終焉」「価値観の多様化」といった言葉は、現代を評する決まり文句になっている。

そのような時代だから、RPGの救済図式がそれら旧来図式の代替、言うなれば「ライトイデオロギー」になっているのではないか。もちろん、ユーザはRPGが虚構だと分かっている。だがむしろ、虚構だからこそ、安心して信じられる。

したがって、国民的に普及しているゲームがRPGなのは、その辺りの理由もひとつにはあるだろうと思うのだ。

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