アニメの声は、キャラの声か? 声優の声か?

概要・実在と虚構の区別

やまなしなひび−Diary SIDE− 考察:二次元と三次元の狭間で

「二次元のキャラを好き」と「三次元の人間を好き」の間には、それほどの差はないんじゃないか

上記元エントリへの疑問を書きます。実は私も似た発想を「バーチャル」論でしていますが、違いを分かりやすくするため、以下では実在と虚構の区別をあえて強調する立場に立ちます。

概要の補足・「二次/三次」の用語法について

元エントリによると、「二次元」「三次元」という用語は、単なる「立体」「平面」ではなく、「対象が実在しているかどうか」という意味で使われています。

たとえば、アニメキャラのフィギュアは立体物だが二次元に属し、アイドルの写真集は三次元に属していると言われます。これは、いわゆる「二次ハジマタ、三次オワタ」的な用法ですね。

したがって、最初の主張は、「虚構のキャラ好きと実在の人間好きの間にそれほどの差はない」と言い換えられるはずです。以下、キャラクター論が混じると論点が散逸するので、実在と虚構の差異を中心に考察していきます。

疑問1・アダルトビデオの女優は存在しない?

あの写真の女のコは、この世界のどこを探しても存在しない

上の引用部分は、アダルトビデオのパッケージ写真と本編のビデオ映像に、大きな違いが見られる(AVのパケ写がまるで別人)ことを、実在と虚構の差はそれほどない、という主張の根拠としたものです。

これには納得できません。何が実在で虚構なのかの区別に混同が見られます。

具体的に言うと、写真も、そのモデルになった女優も、実在するでしょう。虚構なのは、パッケージ写真を見た「鑑賞者の想像上の(脳内の)」女優です。想像上ですから、虚構の存在です。

その虚構がビデオ映像といちじるしく隔たっていれば、「騙された!」となるでしょう。しかしそれは、パッケージ写真は女優の美しさが極大値(一番美人に撮れている)なのを、平均値(映像もそのレベル)だと期待したからです。*1

現実と虚構の区別が崩れるのではなくて、一枚の写真から一連の動画を想像するときに、情報量が足りないので鑑賞者が補完するということでしょう。そしてこの補完は想像です。

したがって、実在と虚構の区分は、問題なく維持できています。

疑問1の補足

なお、写真の修正可能性は、また異なる論点ですが、「修正」というからには、修正前の写真と修正元のモデル女優は存在します。存在しなければ「ねつ造」もしくは「創作」になります。両者の違いは、現実の女優に会えるかどうかです。

ここで、主観を加えて元エントリに好意的に解釈すると、修正可能性が高まった状態、たとえば、本編のビデオも全て超リアルなCGで作成できて、実写との区別がつかない場合も想定できるでしょう。

しかしそれは、実在と虚構が映像を見た鑑賞者にとって識別不可能なのであって、実在と虚構は依然として別です。現実に会えるかどうかの差はやはりあるわけです。

*2

疑問2・アニメにおける声は、キャラの声か、声優の声か?

歌を聴くと「キャラの顔」が思い浮かぶんです。

引用部は、特に新人声優においてはサンプルが少ないので、声優の声なのかキャラの声なのか区別がつかない、というような主張です。これだけでは、現実と虚構の区分を無効化するには弱いでしょう。

ある映画のBGMを聞けば、そのシーンの映像を想起する、という経験をします。イメージが結びつくのは、「錯覚」ではありません。たとえば、いわゆる「空耳」のような、言っている言葉が違って聞こえるのが「錯覚」です。

「空耳」もやはり、音声を聞いている鑑賞者にとって、区別がつかないということです。英語などは空耳的錯覚が起こりやすいですが、翻訳者ならば聞き分けられますし、そもそも文字で読んだ状態では空耳が起こりません。

さて、アニメにおける声は、キャラクターの声か、声優の声なのか、どちらでしょうか? 声は声優の声ですが、台詞は物語上の登場人物の台詞です。もっと言うと、声優が発声しているのを、キャラクターの発話と見なしています。

声は直接発声するので、区別がつきにくいところです。しかし、絵の場合を考えれば、キャラクターの絵か、アニメータの絵か、という混同は起きませんね。アニメータが描いたキャラクターの絵です。これだけでは、分かりにくいかもしれません。

アニメの絵は、「アニメータがキャラクターを描いた絵」であって、決して「キャラクターがアニメータを描いた絵」ではありません。とすると同様にアニメの声は、「声優がキャラクターを演じた声」であって、「キャラクターが声優を演じた声」ではない*3と言えるのではないでしょうか。

そしてそもそも、通常では「演技」という言葉は、演技が虚構であるという意味が織り込まれています。だから「演技ではなく現実だ」と言ったりするわけです。演技している以上、キャラクターは虚構です。だから現実には声優の声なのです。

たしかに、鑑賞している虚構の世界だけを見ると、そのキャラクターの声であり、そのキャラクターの絵(外見)ではあります。しかし、外部の現実で声優が虚構の人物を演じているということであって、現実と虚構の区分が無効化されているわけではありません。

疑問2の補足・鑑賞者の補完領域

ここまで、現実と虚構の差がないように見えるのは、あくまで鑑賞者の想像の領域においてだ、というロジックを展開してきました。

ただし、その想像の領域はかなり豊かなので、それが価値がないものだ、というような含意はありません。

たとえば、アニメーションは1秒間に24コマとか30コマの静止画を並べたもので、現実には連続して動いていないでしょう。しかし、視聴者にとって確かにアニメは連続して動いて見えます。*4

だからアニメが動いて見えるというのは、人間の認識能力の限界によって、現実を不完全な状態でしか見られない、ということです。

しかしむしろ、別の視点で見れば、人間の制限された認識がアニメという表現の世界を形作る、とも捉えられます。神が見れば、アニメは止まって見える。不完全な人間が見るから、アニメが動いて見えて、面白いわけです

物語上の現実は、読者の認識が作ります。現実と虚構は峻別した上で、現実あるいは虚構を好きになるとき、好きになるところには共通部分がある*5、ということは言えるかもしれません。

その共通部分を、すでに言われている言葉で表せば、たとえば「リアリティ」とか「バーチャルリアリティ」になるでしょうか。

声の話で言うと、さきほど声優の声だとしたのは、実在するのは声優であってキャラクターではないからです。鑑賞者から見て、という限定を付けた上でなら、どちらもありうるように思えてきます。どういうことか。

個々の視聴者から見れば、そのキャラクターが好きな人は、アニメの声をキャラクターの声として聞き、声優が好きな人は声優の声として聞く*6、ということはあるのではないでしょうか。

ここでも、「現実には声優の声、虚構においてはキャラクターの声」という、常識的な区分は崩れていません。ただ、両者のどちらを見るかという見方が共存しうること*7、それに「鑑賞者」という概念を明確に関連付けたことに意義があります。

そして、この「キャラクターとして聞く」という視聴者の態度と、声優が「キャラクターとして演じる」態度は、デコードとエンコードのように、裏表の関係になっているのではないかと思います。そして人間は、連続した静止画を「アニメとして見る」ことが出来るのです。

結論

今回の記事では、元エントリの例を検討しつつ、まずは常識的な現実と虚構の区分を維持しました。しかしその一方で、読者の想像上の領域においては、曖昧な部分がありうると考えています。これが冒頭で述べた、「バーチャル」論につながります。

注意しておきますと、この「鑑賞者の想像上の領域」という限定を外して、単純に「現実も虚構も大差ない」としてしまっては、この考察が台無しになります。

記事のタイトルに対する回答は「現実には声優の声、虚構においてはキャラクターの声」という当たり前のものです。しかし、観察者のスコープを通して見る限りで、この両者が両立可能である、というのが考察のポイントです。

*8

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    • 特定可能性がパクリとテンプレを分けるという議論と、ほぼ同じ構造のロジックを今回も使っています。というのも、ビデオの女優が実在しているなら、特定可能性があるということです。

*1:ちなみに、このような誤解は、同人誌でもよく生じます

*2:ちなみに、現実に会った女優がクローンの可能性だとか、例を挙げていくとイタチごっこになります。突き詰めていくと、哲学における同一性問題に帰着するように思えます。しかし、その本格的な議論は煩瑣になるので、ここではしません。

*3:ただし、マンガ家が「キャラクターが勝手に動く」というように、キャラクターが勝手に喋るかのような状態はあるだろう

*4:ゼノンの飛矢不動の逆説を、さらにひっくり返したようなところがある

*5:くどく厳密に言うと、共通部分がある現実または虚構を好きになる、というタイプの「好き」でなら

*6:さらに両者一体の不可分のものとして聞く

*7:斎藤環の言葉で言えば「多重見当識

*8:ちなみに、元エントリのコメント欄にあるように、知覚と実在がイコールになる、観念論的立場がありえます。これについては、哲学的で難解な話になるので、全く触れませんでした。興味があれば、関連書籍を参照してください