『イメイザーの美術』(1〜3巻)

はじめに

著者の灰原とう様から、『イメイザーの美術』の最新刊・3巻のご献本を頂きまして、お礼申し上げます。

紹介

『イメイザーの美術』(以下「イメイザー」)シリーズは、「ガガガ文庫」のライトノベルである。ここでは「イメイザー」1〜3巻を一冊ずつ書評したい。しかしまずは物語全体のあらすじを紹介しよう。

「イメイザー」は、魔術的美術(イメイザーの美術)を操る「イメイザー・チルドレン」(以下、「イメ・チル」)が繰り広げる物語。「イメ・チル」は、「メタモルフィスム」という、イメージを具現化して自分の分身のように扱う特殊能力を持ち、「世界三大(四大)指定美術災害」として世界に影響を与えるほど。その「恐るべき子どもたち」を管理下に置こうと、「秘密の美術協会『ジェルミナスィオン』」という秘密結社が暗躍していた……。

もう少し分かりやすく言うと、子どもの空想のイメージが実体化して現実に影響する、たとえばクレヨンで画用紙に怪獣を描いたら本当の怪獣になってしまう、という話。ゲーム作品で言うと、「FFVI」のリルムや「ラクガキ王国」の発想に近い。では独自の表現は何かといえば、子どもの想像力の世界を構築するしかたにあった。一方の極に児童文学・児童美術・児童心理学的な要素があり、もう一方の極にラノベ・マンガ・ゲームの要素があり、両者のバランスをとりながら映像を喚起する文体で書く。

『イメイザーの美術』

イメイザーの美術 (ガガガ文庫)

イメイザーの美術 (ガガガ文庫)

――――イメイザーの美術。
それはいのちの美術。無垢なるたましいの魔術。

現代的メルヘン

物語は、シリーズ全体を通しての主人公・藍野砂夜と、イメ・チルの始祖である「怪獣画伯」を中心に進み、三話+αで構成される。イラストレーター・太郎の明るい感じのイラストが、子どもを中心にした作品によく合う。また、灰原本人もイラストを描き、童話の挿絵のような効果が印象的だ。

第一話「天使と魔女」は、物語の導入として優れているだけでなく、ライトノベルの中にあって新鮮な印象だ。一話の主人公・元木真深は、謎めく転校生の砂夜に魅力を感じ、彼女に接近していく。真深は、弟の祐との関係に不満を持っていたが、あるとき児童失踪事件が起きて祐が行方不明になる。砂夜に相談すると祐の描いた絵を持って連れていかれ……。

この一話は結末が斬新で、よくある解決方法ではない。すなわち、魔法的な何かで弟の居場所をつきとめて、再開した二人が泣いて抱き合ってめでたしめでたし……的なパターンとは微妙に違う。そうではなくて、姉弟間の精神的関係そのものを修復する。現代的メルヘンといった感じで面白い。

第二話は、映像を喚起する文体による「ショコラの墓」の描写が見所。そして、舞台背景の映像が浮かぶというだけではなく、それが「アール・ブリュットアウトサイダー・アート)」であるところが味わい深い。つまり、エリスという少女がショコラの死を理解しようとした過程で生まれており、その場所は彼女の心象風景なのだ。

第三話は、「クッキーモンスター」との戦いがメインの、シリアスな展開になる。ここで伏線が三題噺と合流して、構成に凝っているようだが、実は物語の展開よりも描きたい場面を組み合わせている、イメージ重視の構成だ。あとがきから垣間見える制作過程も興味深い。

メルヘンの裏面

このように新鮮な意欲作だ。しかしここであえて言うと、この作品に限ったことではないが、「なぜ戦わないといけないのか」「(イメイザーの)能力がない方が、自他共に幸せではないか」「大人=悪・子供=善という図式ではないか」といった疑問が読んでいて浮かぶ。

一言でまとめてしまうと、「そもそも怪獣画伯が美術災害を産み出さなければ一番よかった」と感じてしまうところがある。そして、本編中に「幼形進化」という言葉が出てくるが、子どもの可能性を認めようとすれば、子どもの無思慮・無分別まで認めることになるので、この問題は意外と根が深い。

もともとメルヘン・童話というのは、そういう残酷さがあるものだし、ロジックよりイメージ重視の作品なので、ジャンルの問題のような気もする。しかし、「イメイザー」シリーズは、この疑問にもある程度答えているように思えるのだ。これは後述しよう。

『イメイザーの美術(2) 泥の子どもたち』

イメイザーの美術  2 泥の子どもたち (ガガガ文庫)

イメイザーの美術 2 泥の子どもたち (ガガガ文庫)

すべてのいのちは泥から産まれた。

「泥」のモチーフ

泥! このように単純なモチーフほど書くのは大変(「泥」で本一冊書くほど思いつかない)なことで、そのため読むと新鮮な印象がある。ではどのようにして、泥でエンターテインメントにするというのだろうか。

砂場の地下に空間が広がって、その泥の王国で暮らす子どもたち。この設定だけでも、童心に返ってワクワクするところがある。それに、大人になると砂場で遊んだりはせず、泥に触る機会というのは少なくなるから、その感触を思い出して懐かしくなる。泥の通路を水鉄砲を武器にして進むのはゲーム的だし、周囲が泥なので叩き付けられたりしても痛さを感じないのはテーマパーク的な要素になっている。

「泥」だとか素材に注目するところには、美術的な視点も感じた。美術にも映像的なものと造形的なものがあり、二巻では造形的な感覚が強い。この造形感覚は、演劇やそれを通じた疑似家族の関係を補強する面がある。どういうことかと言えば、要するに「同じ泥のメシを喰う仲」なのである。

兄弟のモチーフ

「イメイザー」には、兄弟・姉妹のモチーフがよく出現する。二巻で登場するドロイド王子・コロイド王子、一巻の真深と祐、そして砂夜、いずれも兄弟のモチーフに関連ある。これは作者の実体験が反映されているのかもしれないが、大人抜きの子どもだけで集団を作ろうとすれば、兄弟関係が主軸になるのは自然だろう。

このモチーフが、二巻から三巻で変奏されるところが興味深い。砂夜はコロイドと兄を持つ立場を重ね合わせる。しかも、男女の反転によるひねりが入る。アーニャと神谷直純の関係は、(アーニャ側から見たとき)精神的年齢差が縮む。しかもそれは、直純の祖父・我生の代替・媒介としてではない、直接的な関係への転移の現象としてあらわれる。

『イメイザーの美術(3) 砂と星のあいだに』

イメイザーの美術  3 砂と星のあいだに (ガガガ文庫)

イメイザーの美術 3 砂と星のあいだに (ガガガ文庫)

こんどキミのこと、絵に描いていい?

主人公と描写

二巻から続くドロンコ王国の話がこの巻で決着を見せる。「ヨルガヲ」などの伏線も回収して、三巻でひとつの区切りがついた形だ。

巻が進むに従って、より読みやすい。ここまでも述べてきた映像喚起の文章の一例として、砂夜とコロイドの会話シーンを見てみよう。

砂夜はあまり女の子がしない座り方、両足を組み、結跏趺坐のような姿勢でいる。

今度は腿から臑まで両足をぺたりと地面につけた、女の子特有の姿勢だった。

砂夜には中性的なところがあるが、ここでは座り方によって会話や思考の女性性を反映している。この男女の揺れを持っているところが、主人公にふさわしい性格だと言える。この揺れ幅が、他者(砂夜にとってのコロイド)を理解する幅になるからだ。

コロイド王子は砂夜に背を向け、奥の洞窟に向かって歩き出した。

長靴が奏でる規則的な足音とともに、おたがいの位置が離れていく。

足音が規則的なのは、迷いがないからだろうし、「おたがいの位置」は、心理的な位置でもある。

こういう演劇的な行動のように、描写に意味があるので分かりやすい。全体的に難しい言葉も使わないが、だからといって誰でも書けるわけではない。マンガを描くときに、「(言葉で説明せずに)絵で説明しろ」という格言があるが、喚起した映像で説明する形で、小説でそれを行っている。

二巻がバトルメインなのに対して、三巻はロマンメインになっている。二組のカップル、対立が解消してくっつくのと、近くにいながら好意に気づかないのと、描き分けた。そして、ラストのボスとの対決では、イメージの切り替えが非常に鮮やか。砂場の「泥」という出発点から、ここまで来たかという感慨がある。

存在の代理

一巻に対して二〜三巻が、一人称より三人称を使っているのも、子どもたちの世界を大人の視点で引いて見ているような効果を生み出す。加えて先のように描写が適切で会話や内面描写を抑制しているのも、自意識が際限なく膨らんでいかない条件だろう。一巻が子どもの目線に近かったのに対して、以降では大人から子どもを見たノスタルジックな視線になっている。

ここはまるでお母さんのお腹の中なんだよね……。なつかしい万能感に浸れる世界。みんなきっと、ここでならなんでもできる気がする。なんにでもなれる気がする。だからみんな、地上に帰りたくない。ずっとここにいたいって思うんだ……。でも、だからこそ、ここは、なにもできない。帰してあげて。ボクたちは帰らないと、砂場の外に出ないと、大人にはなれないんだから。

その意識が明確に前景化するのが上のシーンだ。

だけど、だけどその想い出は、大事な力になっている。

だが、単なる「現実に帰れ」的説教とは一線を画す。通過してしまうから不要だというのではなく、通過することの必要性を認めているところが、違う。それは、泥の王国の子どもたちが精神的危機を解消したこともある。もちろん、通過儀礼と言えばそれまでだが、その表現はそう簡単ではない。最後に、さらにもう一歩踏み込んだ考察をしよう。

だから人間は、存在の代理物をつくりだします。

マンガ『あずまんが大王』の終わり近くで、いつも榊を噛んでいた凶暴な「かみねこ」が、借りてきた猫のように大人しくなってしまう。「かみねこ」は、榊の周囲に対するコミュニケーションの失敗(榊だけが明らかに内面を誤解されている)を体現しているが、卒業式の日の教室は、入学式の日の存在感を失うように、榊が精神的にも「卒業」することで、その猛威が失われてしまう。

そして「イメイザー」の話に戻ると、子どもの夢のような世界をくぐり抜けた後に、一巻では「ダンゴムシ」、三巻で「アンモナイト」が、日常の世界に残る。それは、「だからこそ、ここは、なにもできない」という世界の欠如を象徴し、もはや「なつかしい万能感」に浸れない大人の世界で耐える免疫力になる。

逆に「存在の代理」が無力でない場合、主体にとっては脅威となって現れる。最後にある短編で描かれた侵略者「ヨルガヲ」には、そのような脅威が表現されている。もし完全な存在の代理があるとしたら、入れ替わってしまっても周囲にとっては問題ない。鏡像や影を見たときの子どもじみた不安、「鏡(影)の向こうの自分は目を離したスキに勝手に動かないだろうか?」にこの恐怖は似ている。

ここまでくると、最初の疑問にある程度は答えられる。たしかに物語だから誇張する部分はあるが、特定の対象に固執するのは、現実の子どももそうであり、大人もかつてそうだった。それは通過してしまうものでありながら、通過点として必ず通り抜けるものでもある。そして、芸術といわず創作一般には魔術的なところがある。つまり、現実の代理になる。

おわりに

灰原様には、文学フリマで発表する同人誌『新文学』に、協力して頂く予定になっておりますので、ご期待ください。……蛇足ですが、このブログもタイトルを「ジェルミナスィオン理論」としたら、格好良くなると思いました。