非モテ話は絶望的なカオスか?

絶望

非モテ話の混沌 - Usada’s Backyard

見ての通り、全員が全く別の事象に言及していると考えた方が自然と思えるほどの絶望的なカオスである。しかも一応、全て「非モテ」という同一名称の事象に関する言及という事になっている

p_shirokuma つまり、うさださんは非モテというキーワードに共通する要素を拾いあぐねている・焦点づけることが出来ていない、という理解でよろしいですか?

カオスではあるが少しも絶望的ではないし、同一名称の事象に関する言及が、これくらい複雑なのは普通の事態だ。たとえば、「水」*1を考えてみればよい。

物理学者であれば流体力学の解析対象になるだろうし、経済学者であれば経済資源としての分析対象になるだろうし、文学者や民俗学者であれば、物語や神話のイメージの解釈対象になるだろう。あるいは、料理家やグルメにとっては食事の味を左右する材料であり、画家にとっての水は、にじみなど水彩で微妙な表現を可能にし、マラソン選手にとっての給水は、体力を回復する頼みの綱であり、…などなど。

そのように、「水」の意味は自在に形を変えて流転するが、だからといって、それぞれの分野の定義が曖昧でいい加減だとは限らない。むしろ、各専門分野で非常に精密に扱われている。だからこれは、人間における「水」が、一つの機能に還元されない多態性・多相性・多様性を持つということだろう。

そしてそのような、キュビスム的で複雑な現象を把握しようとするときに、一つには要素に還元する方法がある。しかし、他の全体へと変換する方法もある。どういうことか。次で具体的な例を見てみよう。

変換

ニートがマトモに就職できないのは、自意識が強すぎて他人や仕事を自分の優越感を満たすための手段にしようとしてしまうから。

むしろ親から甘やかされ続けていて、親から受ける愛と同程度の愛を仕事上の他人からも受けられて当然だと勘違いした挙句実際は受けられないのが当たり前であると言う事実を認められない人も多い印象。

一連の騒動自体に関しては、「うわー、相変わらず新卒ってだけで企業は大量に群がるんだね。自分があれと同種ってだけでイヤだわぁ」程度の、以前から述べてる程度の感想しか出ないわけだが、問題はこの群がってる連中や新卒本人が「ニート」らしいということ。

あのー、ニートってそもそも就職にそんなに興味ない人のこと指すんじゃないんすか?

就職したいけど採用されないのは失業者で、そもそも労働至上主義じゃない人間をニートって呼ぶんだと思ってたんですが。

ニートって「(主に同僚に対して)普通に意思疎通を図ろうとしても何かうまくいかない」って感じることだったり、そういう苦手意識だったりと、こーゆーのを少しでもいいから持ってればニートだと思うので、あまり過剰に『ニート言うな』と突っ込む必要はないのではないかと思った。

自分が仕事に向いてないと強く思えれば、そこに諦観を持てれば容易に受け入れられることがある。向いてないから仕事が出来ないんだ。だから仕方が無いじゃないかと。ニートだから仕事が出来ないんだ、そう思えれば心は幾らかは平和だ。納得が行くのだ。

内定をとれる人の行動ちゃんと観察してます?
奴らは根回しもちゃんとするし、基本的にお願いをするのが上手いですよ。
でもちゃんとフォローもしてる。既に定員かどうかなんてどこからともなく情報入手してますよ。
周りから攻めるってことをしてますか?
(中略)
単刀直入にいいますが、おそらく高望みしすぎです。

ニートの奴らって
毎日毎日
働きもせず
「俺はこんなにニートだ」
「いいや俺はもっとニートだ」
なんて競い合って、
それで本人らは議論してるつもりで、
でも最終的には正社員憎し、で共通してるでしょ。

幼少期から思春期にかけていじめられ続けたとか親から虐待され続けていた奴がニートの中の比率の大半を占めてると思う。

世のニートワーキングプア論者は、「ほんとうに」仕事を愛したことがない
(中略)
僕が批判対象とした「ニートワーキングプア論者」とは、ニートワーキングプアを分析対象として「成功する」ことを躍起になって論じている人のことであり、成功者と考えられている人や非正規雇用の自覚を持っている人を指しているわけではない。

*2

非モテニート(あるいは非正規雇用)に変換したが、さほど違和感はないだろう。じっさい、似たようなことが言われている。ということは、非モテニートも「モタざる者」という位相で捉えることができる。そして、承認の供給不足と求人の需要不足を同じに見る。

希望

「Little DJ 〜小さな恋の物語〜」を見たゼ! - 空中キャンプ

つまり「不治の病もの」とは、他人から完全に受容されたいとう欲求を物語化したかたちなのではないかとおもうのだ。なぜなら、難病なのに誰も見舞いにこないとか、ひとりも自分を心配する人がいないとか、自宅で孤独死してミイラになってからようやく発見とか、そんな映画があってもぜったいに人気にはならないのであって、そこにはやはり他者の受容が必要になるのである。つまりは「難病もの」というテンプレートの陳腐さを指摘するのではなく、むしろなぜこのように「受容という体験」が希少化してしまったのか、そちらを考える方が先ではないかとわたしはおもう。

だから、「非モテ」というテンプレートの陳腐さ、あるいはその適用の混沌を指摘するのではなく、「むしろなぜそのように「受容という体験」が希少化してしまったのか、そちらを考える方が先ではないかとわたしはおもう」。

もちろん、恋愛は労働と違って生きるために必須ではない。その分深刻に捉えられないのだろう。だが、恋愛は結婚や家族という広場に通じる道である。だから、非モテ孤独死につながることは十分ありえるのだ。配偶者や子供の援助が受けられないし、現状だと公的年金も機能するか分からないので、悲惨な老後を迎えることも予測できる。

そして、これは暗い話かもしれないが、明るい未来の希望(幻想ではなく)を得るためには、暗中模索で通り抜けなければいけない暗闇なのである。

構造

しかし、なぜ、承認・受容は不足してしまったのか。これは、資源の希少化というよりも、市場が寡占化したのではないかと考える。そしてそれは、市場のフリースケール化によるものだ。どういうことか。一度書いたので詳しくは関連記事に譲るが、要約するとこうだ。

大昔なら移動・通信・表現手段が発達していないので、パートナーに選ぶことが可能な対象が物理的に限られていた。だが現代では、実際に出会う人間の数が飛躍的に増え、しかもネットでもコミュニケーションでき、さらには虚構作品まで対象になりうる。すると、トップに爆発的に集中してしまう*3。つまり、恋愛市場における格差問題なのだ。

だとしたら、この構造的問題を解決するのは、コミュニケーショントラフィックの負荷分散になる。ただ、ここで問題なのは、労働問題は社会政策の対象になりうるが、少子化に関係しているとはいえ、恋愛は個人レベルのことなので、実現可能性を別にしても、そもそも実現自体が倫理的観点から望ましいのか、ということだ。

例えば、誰と誰が結婚するのかに家や国が介入すれば、カップルに余りが出ないようなシステムは作れるだろう。だが、それではあまりにも前近代的で封建的だ。心に還元できない構造的問題があるとしても、個人の意思を尊重する、という近代的な最低限の建前は満たすべきだろう。しかしそれではやはり市場競争になってしまう…。このように、問題は明確なのだが、答えを出すのが難しい。これが非モテ問題の特徴である。

*1:「金」「車」「家」などでもよい

*2:以上、引用先の再引用を適当に改変

*3:アイドルと恋愛関係になりたいと望む男女は、アイドル一人につき何万人いてもおかしくないだろう