(ライトノベル)読者の不快感に対する配慮について

『フルメタル・パニック!』に感じる不快。 - Something Orange

賀東さんはじっさいに100キロを超える読者もいるんだってこと考えなかったのかな。

ブクマコメントを受けて、追記。
だれも作者の人格やポリティカル・コレクトネスの話なんてしていないよ。

ただ、作劇の方法論として、この描写はマイナスではないか?と思うのだ。

(注:上記エントリは「ライトノベルに不快を感じるとき。」から改題している。)

ブクマコメントの突っ込みが多いので追記したようだが、「〜読者もいるんだってこと考えなかったのかな」と「作劇の方法論として、この描写はマイナスではないか?」の整合性があまりない気がする。読者の想定と作劇の方法は別だろう。

単に登場人物が嫌いなら嫌いでいいし、作品が嫌いなら嫌いでいいし、作者が嫌いなら嫌いでいいけれども、「ライトノベルに不快を感じる」と一般化して語った場合、読者の不快感を避ける配慮(PC)が不足している、という論旨に取られても誤読ではないと思う。

でもそれを言ったら、斧関連の放送自粛と同じ根に辿り着く。もちろん、TV局の対応とはレベルが違う話で、個人が不快感を表明するのは自由だけど、その不快感を先取りして防ごうとすると、規制的なものになってしまう。

誰一人不快にさせない作品を作ろうとすれば、毒にも薬にもならぬものになるだろう。だから、事前に表現の機会を奪うのではなく、読者各自が好きだとか良いと思う作品・作家を、単に選んでいけばいいと思うのだ。

おまけ

そして、いつの日か、「オタク」は死ぬだろう。「SF」が死んだように。

かぶっていても別に構わないと思うけど、それは、岡田斗司夫の「オタク・イズ・デッド」では…。