なぜ恋愛の相手はかけがえがないのか

恋愛関係の固有性は個人の固有性か

こころ世代のテンノーゲーム - 恋愛の不可解なオキテ

恋愛というロジックにおいては、自らがまず「選別可能な選択肢」になることが大前提となっている。
(…)だが、恋愛というロジックにおいては、自分と相手を互いに「交換不可能な存在」として規定することが、同じく前提とされている。
(…)この「交換可能である」という大前提と「交換不可能である」という前提とは、いったいどうやって両立するというのだろうか。

Something Orange -  すべての恋愛は交換可能な関係である。

 しかし、それにもかかわらず、すべての恋愛相手は「交換不可能な存在」でもある。
(…)ただ恋愛できればいいというだけならいくらでも代わりはいるだろうが、ある個人との関係は唯一無二だ。
(…)あるポジションを埋める個人を捜すことは出来る。しかし、あるひとりの人間とまったく同じ代用なんて見つからない、そういうことだ。

最初の記事の問題提起を受けた、次の記事が言わんとするところはこうだ。制度としての恋愛の相手は交換可能だが、その相手は個人としては、交換不可能な存在なのである、と。読者は、「なるほど、個人との関係は、唯一無二の関係、一期一会なのか」などと、何となく分かった気分になるかもしれない。しかしそれは、的外れなズレた理解だ。恋愛関係の特殊性・固有性の説明としては、問題の所在がすり替わってしまっているのだ。なぜそう言えるのか。

まず、個体レベルの特殊性・固有性は全ての個人に存在する、という命題は認めるとしよう。しかしそれは、恋愛の前でも後でも最中でも変わらないし、恋愛以外の関係でも変わらない。そしてそのことが、「良いお友達でいましょう」という、恋愛関係を断る決まり文句に現れている。断られた方が肩を落としてため息をつくのは、単に個人として認められたいのではなく、恋愛関係になりたいからではないか。

あるいは、こうも言える。ライトノベルの作品は、全ての作品が個別*1だと言える。しかし、そのレベルの固有性と、作家性や作品性とは全く違う。もっと言うと、同じ川の流れは二度ないし、河原の石だって一つ一つ違うだろう。しかし、それは原理的な話で、実際に石を売れば、「無能の人」だと言われるのである。考えてもみるがよい。

もしかしたら、こういう解釈で反論するかもしれない。コンビニでレジをするときの店員だとか、通行人的な人間に対しては確かに十把一絡げだ。でも、距離が近づけばどんな人間にもある個別性が見えてくる。恋愛関係というのはその距離が近づくことだ、と。これはいくらかマシなように見えるが、まだダメなのだ。というのは、距離の近さで言えば、家族や友人だって近いだろう。恋愛関係とは何かが違っている。

繰り返すと、人間は一人一人別だから代わりが効かない、というそれ単体の主張が間違っているわけではないが、それを恋愛関係の特別性に適用するのは、ズレていると言わざるをえない。だがそれでは、恋愛関係の相手が特別な相手、かけがえのない存在であるのは、なぜなのか。

なぜ恋愛の相手は特別な存在なのか

実は話が全く逆なのだ。恋愛関係が成立することによって、相手の固有性が生じる。または、相手の固有性を認めることによって、恋愛関係が成立する。じっさい、単なるクラスメイトだとか、もちろん人間の個別性まで否定しているわけではないだろうが、言ってみれば通行人的な存在だったのが、恋愛関係になることによって、特別な存在になるというのは分かるだろう。十人並みの異性でも、恋愛の相手になると特別になる。

これはいわゆる「あばたもえくぼ」という現象であり、「恋は病」「恋は盲目」「恋は魔法」という力なのだろう。人間の個体レベルの個別性というのは、AさんのあばたとBさんのあばたは違うということだ。しかし、恋愛における特別性は、AさんのあばたもBさんのあばたも第三者からすれば似たようなものだが、Aさんと恋愛関係にある場合は「あばたもえくぼ」に見え、Bさんはあばたはあばたのままだということだ。

なぜそうなるのか。極端に単純化して言えば、恋愛関係は一対一の排他的関係*2であるから、相手が特別化するのだ。二人以上と同時に恋愛するのは、「浮気」「不倫」と呼ばれて、一種の裏切り行為とされるだろう。それは「遊び」の恋愛とも呼ばれ、純愛とは違ったカテゴリになる。

これが友人の場合なら問題なく増やせる。だから、単に友情にセックスを付加しただけの関係ではない。特にプラトニックな恋愛の場合、その違いがより明白に現れる。また、子供にとって親はそれぞれ一人しかいない特別な存在だが、必ず親が先に生まれていて*3ほとんどは権力的にも優越しているし、親の方は複数の子供を持つことができる。子は親を選べない。ここが、相互承認で成立する恋愛関係と違う。

しかしさらに問えば、なぜ、恋愛関係は一対一の関係でなくてはならないのか。それは、「私」が一人しかいない、という自明性に基づいている。恋愛相手の理想像は自己の鏡像である。もちろん、現実の鏡は左右が反転する*4だけだが、想像的な鏡像では「男女」だとか抽象的な軸で反転する。そして、「あばたもえくぼ」なのは、自己愛を投影しているからなのだ。相手のかけがえのなさは自分のかけがえのなさに由来している。

従って、一番最初の問いに戻れば、交換可能性と交換不可能性の両立は、このように成立する。まず、相手は交換可能だが、私は交換不可能である。そして、互いが互いに、交換不可能な「私」の鏡像だと相手を認識する。だから、相手が固有で特別な存在だとなるわけだ。もちろんそれは幻想なのだが、そのような幻想を誰もが抱く、普遍的な構造を持っている。そしてまた、これは永続的ではなく、この幻想が解ける状態が、夢から覚めるように、恋が醒める状態なのである。

*1:正確には、文字列の情報は有限なので、偶然に完全一致する可能性はあるが、その確率は天文学的に低い

*2:もちろん、時代と地域によっては違うだろう。ここでは近代的な個の恋愛をモデルにしている

*3:実の親の場合。義理の親は違う

*4:正確に言うと奥行きのZ軸が反転する