ネットの可能性は「バカ」にある

メディアの条件

萌え理論Blog - ネットばかり見てるとバカを見る

ネットが頭を良くする(悪くする)というのは迷信に近い。そうではなくて、地理的物理的なコストを下げて、流通的な障壁を無くすのがインターネットの意義である。

前エントリで、経済格差が情報格差になる、という主張を批判したのは、本当に深刻な格差社会の現実を隠蔽してしまうからだった。「情報格差──これから始まろうとしている本当の格差社会」などと、「格差」の文句で脅す一方、「パソコンとインターネット」さえ使えれば格差社会を勝ち抜ける、という甘い妄想を振りまく。そして、PC・Webでその記事を見ている読者は慰撫される構図となる。しかしもし、記事の言う通り「10歳程度までに」「少なくとも義務教育レベル」「もしかしたら高校レベル」「大学の一般教養レベルにも達する可能性すら」あるのなら、格差を制するのは読者ではなく、次の世代の天才児たちだと、少し考えれば気付くはずだ。要するに、はてブホッテントリが、スポーツ新聞の見出し的に、あまり深く考えずに消費されているのだ。

そのレベルの認識は、本当にくだらないから却下する。しかし、それとの対置で「インターネットの現実なんてこんなものだ」などと、ネットを冷笑的に見下しているわけでは全くない。私は決してそうは考えない。むしろネットの可能性を強く実感している。それは上の引用で言ったように、情報化によって物理的コストを引き下げ、流通障壁を限りなく下げている部分に、インターネットの大きな意義があるのだ。それは決して夢物語を語ることではない。例えば、同じ自然法則に従った物体の運動でも、空気抵抗がない状態では振る舞いが全く変わるように、条件が異なる別の現実なのだ。活版印刷や複製芸術が歴史を変えたような、メディアの条件から時代を捉える思考をしたい。それでは、インターネットは時代の何を変えるのだろうか。

断片化するシステム

無い袖は振れないから、いくらインターネットで情報革命だと言ったって、例えば数学の未解決問題を解く人間が、次から次へと出現してくるわけではないだろう。しかし、専門分野において、知識を一定水準へ引き上げることはできる。これが「高速道路」という比喩の意味だろう。高速道路は自動車の性能自体を上げるわけではなく、その限界性能を発揮できるようにするものだ。だから、今まで高速道路は学校教育位しかなかったのが、ネットの出現によって縦横無尽に走れるようになった。ただし、みんなが使えるインフラで差別化することはできないので、結局高速を降りた先で渋滞が起こる。例えばITエンジニアならPCが使えるのは当たり前なので、それ以外の数学や英語ができるかといった部分で差が付く、といった感じだろうか。結局、ネットで高速に乗っても、ネットを降りた先の渋滞部分で差が付くので、格差は埋まらない。

しかし、そもそも競争=目的にこだわらなければ、渋滞を避けて高速だけで移動できる。それが、ネットにおける非生産活動の隆盛だろう。掲示板やブログやSNSに大勢の人間が集まるのを、金にならないことを飽きもせずやっていると見るか、金を掛けずにこれだけ楽しめると見るか。「集合知」「CGM」「ロングテール」「オープンソース」「マッシュアップ」「ソーシャルネットワーク」など、「Web2.0」系のキーワードというのは、流通コストの低下によって、不特定多数の余剰リソースを集めて来るシステムの、様々な側面を指しているのではないかと捉えている。これは断片的で「微分的」なシステム*1だと思う。近代的なシステムは統合的で「積分的」だった。例えばテレビの「放送」は同じ内容を皆が受信しているが、ネットの「通信」は皆がバラバラの内容を双方向で送受信している。

資本主義vs情報社会

要するに、重厚長大から軽薄短小に路線変更したということだ。外部に植民地を求める20世紀の帝国主義的思想が、様々な理由から限界を迎えると、今度は折り返して内部に開拓地を求めている構図に見える。内部とは正確には細部のことだ。神は細部に宿る。自己相似性を持つフラクタル図形は、スケールをどれだけ小さくしても同じ形態が現れる。しかしこれは抽象的で分かりにくいかもしれない。別の言い方だとこうなる。「環境」問題の発見によって、科学の発達が無制限に肯定されなくなったことにより、人々は大量消費からコミュニケーションを志向するようになった。つまり、新しくモノを買っては捨てて、消費するサイクルをどんどん早く大きくするのではなくて、モノについてのコミュニケーションをああだこうだと複雑化していくというわけだ。

この際、もっともっとざっくばらんに言ってしまおう。高度成長も終わりを告げ、少子化で不景気で格差社会で、数の上では負け組の方が多くなってしまう。とすると、そもそも成長志向・上昇志向・拡大志向・序列志向・競争志向…といった概念に囚われる動機が低くなる。すると、2chで最も人口が多いVIPでニートを誇示する行為のように、価値観を反転させよう*2という(無意識の)戦略が現れるのではないだろうか。だから、「格差社会=情報社会」ではなくて、流動化した資本主義*3と、断片化した情報社会という、異なる二極の作用として捉えたい。資本側は情報側を取り込もうとするし、情報側はそれにに抵抗する。それが例えば、著作権の問題という場所で対立が噴出する。共有的なVIPと権利的なJASRACニートとスーツの論理の対立である。

「バカ」な部分にこそ、インターネットの可能性がある

要するに、情報が資本からある程度自由になり、自律的なシステムになろうとするのだが、資本側は常に包摂しようとするので、局所的な対立が起きるという、現代社会の一つの大きな流れを観察したわけだ。例えば、今流行してる初音ミクだって、商業プロに取って代わるわけではないし、そもそもニコ動の関心はそういう資本の動き*4にはない。だから、CD化したら売れない程度の技術だから流行るのが理解できない、というのは既に資本の論理で、むしろ、市場が剰余してきた新しい細部の開拓に興味があるのだろう。もちろん、ニコ動にはアフィリエイトが付いているし、そもそも高額な回線代を払っているので、当たり前だが結局市場から完全に独立することなどできない。それは空気抵抗のない真空中では生きられないようなものだ。それを踏まえた上でも、市場から分離しようという動きは結構面白いと思う。それはつまり、資本主導のセカンドライフより、情報自律のニコニコ動画の方が面白くて人が集まるということだ。

だが、とすると、資本が切り捨てる「バカ」な部分*5にこそ、インターネットの可能性がある、という話になってしまう。分かりやすい格差の脅しや儲け話に比べると、これはかなり両義的で微妙な結論である。ネットは量の問題ではなくて質の問題、それも複雑な細部に転化する。それはいわば商品、例えばCDや本を二倍買えるのが豊かなのではなくて、ネットで二倍*6コミュニケーションできるようになるのが豊かだ、という発想の転換なのだ。「これからの時代はパソコンでインターネットでIT革命で効率化で情報格差〜」というお題目は、おそらく団塊世代にも支持されるだろうが*7、「バカ」な部分にこそ可能性があるというのは、さすがに理解されないだろう。あるいは、ギークもスーツも、GoogleAmazonの視点で見る*8ので、支持されないだろう。ネットは頭が良くなるどころか、むしろバカになれるから良い、と言っているのだから。しかし考えを進めて行くと、そこに辿り着いてしまうのだ。さて、どうしたものか…。

*1:そもそも、Web上のハイパーテキストも、テキストをハイパーリンクで断片化し再構成して読むという意味では、微分的だ

*2:「萌え」も幼く幼稚な方が萌えるという、退行の要素を含んでいるだろう

*3:例えば雇用の流動化など、グローバル資本の流れ

*4:商業レベルかどうかという音楽の技術にも

*5:少なくとも金にならないという意味では、資本主義的に賢い選択ではないだろう。ニコニコも回線代で赤字だったようだ

*6:「質」という以上、本来数値で測れないのだが

*7:これはあくまで大雑把に見た印象だが、前エントリで言及した元記事には、古い世代が支持している様子が見られた

*8:技術か資本かの違いはあるが、同一化する視線は実は似ている。だから、はてなのサービスはユーザ側の視点にならないのだ。対してひろゆきは相当儲けているにも関わらず、ニートの視点を忘れない