ホワイトカラーエグゼンプションの理想と現実

「労働時間」ではなく「割増賃金」のはずなのに

「働き方」ではなく「働かせ方」のはずなのに

ホワイトカラーエグゼンプションは、労働基準法上の労働時間の制約を除外して、労働の対価たる給与を、「労働者が働いた時間」でなく、「労働者が作り上げる価値」で測ろうとするわけです。

これを読んだ読者は、例えば「ああなるほど、情報化社会では労働成果は時間で計量できないから、先行しているアメリカのホワエグに倣って、労働時間規制を撤廃するための制度が日本版ホワエグで、やがては日本のホワイトカラーがみんなこのように働くのが時代の流れなのだな」という感想を持つかもしれない。ところがそれこそがまさに典型的誤解なのであり、それでは「残業代ゼロ法案」という理解と、対極のようで実は本質的に大差ないし、中途半端に物分かりが良い分、かえって罪つくりかもしれない。どういうことか。

  • 割増賃金
  • 労働時間

そもそも「ホワイトカラーエグゼンプション」とは、裁量労働をするホワイトカラーに対して、労働法制による規制から、適用除外する制度なのだが、それが上で言うように労働時間規制からの適用除外かというと、現にそのような法案になっているから間違ってはいないのだが、それが本質だとは言えないし理想的な形だとはますます言えない。ここには複雑で微妙な事情がある。もともとアメリカの適用除外は割増賃金に対するもの*1で、日本版ホワエグも当初、そのように話が進んでいたが、途中から労働時間の適用除外に話がすり替わっていったのだ。

大雑把に違いを言うと、割増賃金なら賃金の話なので、無制限残業=長時間労働には直結しない。割増賃金の規定を適用除外しても、総労働時間の規制と合わせて適用すれば、無制限の長時間労働にはならない。このように、労働時間規制と成果主義給与が両立することは強調しておきたい。いくら成果が時間で計れないといったって、長時間労働の上限を決めて労務管理することはできるだろう。

そして、アメリカのホワエグは適用の要件を厳格に運用しており、ホワイトカラーなら誰でも当てはまるわけではない。それを無視して当てはめると訴訟が起きる。アメリカに比べれば、日本版のホワエグは年収に関する条件*2の他は、要件が甘めになっている。時間で計れるところは時間で測るべきだ。そうしないと、裁量だという建前で単に無償で労働時間を延ばすだけの結果を招きかねない。

限りなく透明に近いホワイトカラー

科学的・民主的プロセスで作った目標設定と、誰がやっても変わらない絶対的評価査定

これに対し「日本の成果主義は成功しない」という話があり、本当に公平で客観的な成果の査定などできるのか、といった疑問は出るだろう。しかし実は、査定評価の問題が本質的なのではなくて、それとは別に裁量労働という、より根本的な問題が控えている、と私は考えている。特に一定以上の年収であれば、多少の給与差よりも裁量性が欲しいだろう。どういうことか。

ホワエグの前提は裁量労働のための適用除外である。アメリカの裁量労働者には本当に裁量性がある。しかし、日本の多くのホワイトカラーには、裁量性などないのが現場の実態ではないだろうか。特に、(経団連が提示する条件に当てはまる)年収400万円台のホワイトカラーが、裁量性をバリバリ発揮するというのはちょっと現実離れしている。

例えば皆が残業しているのに、一人だけ職場の空気を読まず「定時だから自分の裁量性を発動して帰る。やさしいホワエグが好き。バイバイ。」などと言えば、次回の職に期待するハメになりかねない。ホワエグを「自律労働時間制度」などと呼んでいるが、特に会議や顧客の対応など相手が存在する対人的な仕事の場合、個人の自律性より職場の協調性を求められて、実際にはダラダラ残業する時間が伸びる一方になりそうな気配はある。

アメリカではエグゼンプトが適用されないホワイトカラーについては、「残業代が出なければ帰ればいいじゃない」というのを本当に実行している。むりやりサビ残を強要すれば訴訟が起きる。「帰りたくても帰れない」「休みたくても休めない」日本とは大違いだ。そして、エグゼンプトを適用しているホワイトカラーも、休日はちゃんと取っている。もちろんアメリカの労働状況も良いことばかりではないだろうが、その最低限の歯止めはある。だから、厚労省の報告にもあるが、ホワエグを導入しているアメリカでは、過労死者がたくさん出る日本ほど労働環境はひどくはないらしい。

ホワイトカラーエグゼンプションの理想と現実

もし今まで述べたような問題が解決している「理想的ホワエグ」があれば、反対する理由はなくむしろ賛成する。現時点の厚労省の案は、労働時間の適用除外になった時点で理想的ではないが、それなりの現実性がある「現実的ホワエグ」というところだろうか。この条件は議論の過程で出てきたので最初からそうなっていたわけではないが、年収900万円以上への適用だからある程度の賃金は保証されていて、また週に二日の休日があるので、まあそう無茶なことは言ってないが、やはり時間規制と裁量性の問題があるので、消極的に反対しておく。

だがそれでは、ホワエグに反対する必要が本当は全くなくて、単に「労働者がアレルギー的にNOをつきつけたのだろうというのが」事の真相なのか。「残業代ゼロ法案ハンターイ!」というのは、まるでラダイト運動のように、情報化時代の流れに、ただ無意味に逆らっているのかというと、そうとも思わない。ホワエグが建前通りに運用できればよいが、現に大量の不払い残業があるわけで、そういうベタな現実を無視して、「アレルギー」すなわち過敏な反応だろうとしてしまうのもいかがなものか。

私が積極的に反対するのは経団連の提言である。そこでは適用条件を「年収400万円以上」にしている。ますます裁量性なんかない。この「劣化的ホワエグ」が今回実現しなくても、消費税が3%から5%になり、更に値上げの可能性があるように、段階的になし崩しで年収要件を下げていく、ということはありえる。こうした力任せの拡大解釈によって、本当にベタな「残業代ゼロ法案」に化けていくシナリオは、専門家の理論ではなく現実の政治では大いにありそうなことで、危険な予感がする。

要するに、ここで言いたいホワエグの本質というのは、一つは本来あるべきホワエグは時間ではなく賃金の話だということで、労働時間規制と成果主義給与は矛盾しない。もう一つは裁量労働なんだからある程度の裁量権を適用労働者に任せないと、「自律労働」などは絵に描いた餅になる、ということである。本当はそもそも成果主義だって、裁量権がなければ上手く回らないだろう。そしてもし無制限の長時間労働になれば、労働者だけでなく社会的に不利益なのだということは、前の記事で既に書いた。

ところが、先の厚労相の会見では「家族団らん法案」という表層だけの取り繕いだとか、「残業代が出なければさっさと帰ればいい」という趣旨の、まるで「パンがなければケーキを食べればいい」というような、現実の日本の職場から大きくかけ離れていることが言われて、議論の軸がブレブレにぶれてしまった。それを上回るトンチンカンな反応が、id:finalventid:ululunのエントリだった。それはさておき、私は決して単に言葉の綾を揚げ足取りしているのではない。残業代が出なくても帰れないということはまさに、裁量労働制を適用しようとするその労働者に裁量性がない、という日本の現実を示しているのだから。

*1:時間規制の適用除外では決してありえない

*2:これも最初は額が明示されていなかった。また、経団連が言うように、アメリカ版も年収要件自体は確かに高くないのだが、他の適用の要件を厳格に運用しており、そもそも適用対象の条件自体がすり替わっている。規制があってそこからの適用除外なのに、そのような区別なく多くのホワイトカラーに当てはめようとするのは制度の歪曲である