ニートにはホワエグ関係ないという誤解

仕事量は残業の限界まで膨張する

CROOK - まずは残業自体の必要性を問うべき

まず先に考えるべきなのはその残業は本当に必要なのか?って事だと思う。

これを考えないで残業代ゼロ法案ハンターイ!って言うのは無能CO(カミングアウト)と同じじゃないかと心配で出来ません!

なぜそういう話の流れになるのか全く分かりません。まず先に考えるべきなのは残業代の必要性でしょう。残業の必要性ではなく残業代の必要性です。仮に職場で一人だけ効率よく働いても、一人だけ定時に帰るのが難しいのが日本の職場なんだから、余った新しい仕事をやることになって、結果的に残業は減らない。それなら職場全員でやればどうかというと、その分だけ新しい仕事を取ってきて、結局みんな残業漬けなのは変わらない事態が想定できます。つまり、モルモットが歯車を回す速度が速くなるだけ。

「支出が収入に限りなく近づいて行くように。」というのは「支出額は収入額に達するまで膨張する」「仕事量は、予定期間を満たすまで膨張する」という「パーキンソンの法則」でしょう。それと同様に、残業代が全く出なければ、経営側にしてみれば残業を減らす動機がないわけで、限界まで労働時間が膨張していくでしょう。要するに、「その残業は本当に必要なのか?」というのは、労働者だけではなくて経営者も考えて欲しいということです。それがなければ、三途の河原の小石積みのように、際限なく新しい石を積むことになります。

だから、残業代を課すことで、ダラダラ残業したら非効率だということを経営側が認識しないと、残業漬けは解決しません。個々の会社や社員の働き方の問題とは別に、一定の枠を超えた労働に手当をつけて、またあまりにも多すぎる量の残業を取り締まるのが、行政の役割なのです。個人と会社では個人が弱いわけだから、そこは個人の努力や自然の競争に任せているだけでは解決しない問題なので、「残業代ゼロ法案ハンターイ!」*1と言ったって全然構わないでしょう。

ニートにはホワエグ関係ないという誤解

さて、ここから先はid:legnum氏の記事への言及から少し離れる。前回の記事で、残業代を課すことによって、会社員だけではなくて同じ市場にいる自営業者も、賃下げの過当競争から守っているのだ、ということを書いた。しかし重要なことはそれだけではない。

ここでも、話を簡単にするため、ごく単純なモデルを考えよう。Aという会社は残業させまくりで、10人の社員が一日16時間働いている。Bという会社は20人の社員が一日8時間働いている。残業の割り増しはないが時間給は出ているものとすると、計算上はAが10×16=160、Bが20×8=160で両方同じ給与額・仕事量になる。

だが、会社は社会保険を負担したり、備品が頭数分だけ必要になったり、実際にはAの方が経費が浮く。それに、新人を教育するよりベテランを余計に稼働させた方が、単純な数値化は難しいが確実に効率的だろう。しかも、現実にはサビ残が横行していて、Aで8時間分しか給料を出さないのが一番浮く。そんな風に企業は人件費を浮かせるために、Bの新雇用型よりAの残業増型の人事を好むのである。

しかし留保なく残業を肯定しては、労働者の健康・生命が脅かされるし、市場全体の雇用が悪化してしまう(というか既にそうなっているのだが…)。だから、際限なく残業させて安上がりに済ませるのではなく、雇用・保険・教育・健康などの社会的コストを、企業にも負担してもらう必要がある。残業に対して超過を規制したり手当を保証したりするのは、労働者だけではなく、社会全体にとっても有益なのだ。これが残業代の意味である。

だから、ホワエグニート*2にだって関係ある。イス取りゲームで一人が二人分のイスに座っているようなものだから席が足りない。それに、今現役でバリバリ働いていたって、もしリストラされて失業すれば、次の職を探す必要があるだろう。だから、「今の職場だって残業代が出ていないからホワエグどうでもいい」というのは近視眼的なのである。

従って、鳥瞰的視点で見ると、残業代というシステムが必要になる。より正確に言うと、最初のエントリで言われるように、残業労働や残業代を最初から見込めという話ではなくて、むしろそれにコストを課すことによって、社会全体の雇用を安定させるなど他の効果があるから、残業代という(負の)インセンティブは必要だという話なのである。

*1:この呼び方・捉え方は、本来のホワエグの理念とは少し違うんだけれども、正確な解説は別の機会に譲る

*2:それが自発的失業か非自発的失業かという問題は、ここでは置いておくとして