「自重」以外「留保」論法

分かってくれとは言わないが、そんなに留保が悪いのか

REVの日記 @はてな - 留保の無い逃走の肯定を

交通違反者が、警察の追跡を受けて、停止せずに、逆に暴走運転で逃走しようとし、運転を誤って死亡する」事故を減らすためなら、100兆円や1000兆円、なんて、安いものだろう。反対する人は、死んだ人の家族の前で、俺は金を払いたくないから、人が死ぬのは仕方がない、と言えるのか?

NaokiTakahashiの日記 - 迷走してませんか?

この段階で、このニュースのどこに「留保のない逃走の肯定」を心配しなければならない要素があるんだろう。問題は、警察の追跡が、警察側の過失による、かえって事故を引き起こすような危険なものであったのか、それとも警察側は妥当な追跡をしていて過失は無かったのか、という点にある。警察側の追い詰め方に問題がなく、逃走者が無謀だったせいで落ちてしまったのであれば、これは賠償されないことになるだろう。

逃走事件については上のエントリで既に言及されているので、id:REVさんがスペシウム光線のように得意にしている、留保論法そのものについてここでは考えます。留保論法とは、「留保の無い○○の肯定」という立場――それは上の「100兆円や1000兆円」というように、社会全体が成り立たないようなレベルまで誇張して拡大解釈される――を取るか、REVさんの考える解決策、例えば「自重」を求めるか、どちらかだという二択の形を取ります。

しかしこの選択肢はあまりにも極端です。例えば留保付きで肯定してもいいでしょう。その通りに「これはひどい」という主張も多いのでしょうが、だからといって対立する主張を全部が全部、「留保」枠に押し込めてしまうのは、ワンパターンだし窮屈さを感じます。だから、「国破れて留保(無き肯定)あり」的なことわざというか、「謝罪!賠償!」に対する「留保!肯定!」みたいなシュプレヒコールというか、皮肉や風刺や戯画化としてはインパクトがありますが、論証力は弱いのではないでしょうか。つまり、留保論法は自重しないのか、という疑問があります。

デカルトデカルト唱えるよ、カリモフブクマの子守唄

確かにDQNな主張はよくニュースで見ることがありますが、もしそれを帰納してもっと一般的な規範として主張するなら、もう少し過程を踏んで欲しい気がします。留保のない肯定、すなわち何々は無検証に正しいから無制限の権利を主張する、というREVさんの分かりやすい仮想敵のような主張は、元々の私の記事(萌え理論Blog - 医療崩壊と「留保なき生の肯定」論法)でもしていないと思います。単に個人の視点だけでは社会全体のシステムが回らないことは、もちろんREVさんに同意して前提にしますが、しかしその上で、留保か自重か、という二択以外の選択肢を考えるのは、普通だと思います。

医療崩壊問題について、「医者が悪い」とか「国が悪い」とは言っていません。だからといって「患者が悪い」という選択肢しか残ってないわけではありません。個人的にはマスコミはリスクを背負っていないので、安全地帯から感情を煽るだけではなくて、もう少し社会的コストを負担して欲しいと考えますが、やはり一律に「マスコミが悪い」というわけでもありません。そもそも医療崩壊問題が、(このブログで扱うほど)メジャー化したのには、NHKの番組の影響があるでしょう。誰が悪いとかではなくて、リスク社会の利害分配をどう調整していくか、という問題です(まあそれをここで言ってどうにかなるわけでもないのですが)。最後にこの問題にもう少し具体的に踏み込んでみます。

仮に、厳罰化は避ける方向で行くとしましょう。そのときに「よきサマリア人法」のような法的責任軽減の明示化は、結果的にはたとえ多くの個人が自重しても必要だと考えています。なぜなら、医者の側は個々の患者が自重するかどうかは事前に分からないので(一々契約書でも交わせば別ですが)、潜在的・確率的リスクを避ける行動はあまり変わらないからです。また、規則を明示化すると際限なく規則が増えるというのはありますが、専門的な法律は専門家と法律家が扱うから、100兆字や1000兆字、なんて肥大化はよくないけれども、環境が貧しい時代のコードのように、何が何でも記述を減らさないといけない、ということもないでしょう。というか、そんなに無茶苦茶なことを言っているでしょうか…。