西洋シンボル文化と日本イメージ文化(3)

明治編2

萌え理論Blog - 西洋シンボル文化と日本イメージ文化(2)

明治期に社会システムが変化したことは前回書きましたが、それが文化システムにどう関係するのかを今回書きます。

士農工商」のような身分制度ではなくて、学問による競争制度への変化を説いたのが、前回の福澤諭吉ですが、「勧善懲悪」のような物語制度ではなくて、写実による表象制度(リアリズム)への変化を説いたのが、今回の坪内逍遙です。前者が生まれる前の時点で既に固定している貴賎なのに対して、後者は書かれる前の時点で既に固定している善悪、という風に両者の構図は共通しています。それは言わば、固定された伝統的コードを解体して、コードを生成する規則=公理系という、より抽象的なレベルでシステムを作動させるという変化です。

明治の文化変革

坪内逍遥の『小説神髄』辺りを嚆矢に、近代文学という分野が誕生します。「自然主義リアリズム」の登場はもう少し後になりますが、森鴎外との「没理想論争」で、近代小説の本質は既に示されている*1と考えます。つまりそれまでの伝統的文芸が「勧善懲悪」のような約束事を反復して描くのに対し、現実をリアルに写実して書く*2ように、パラダイム(大きな枠組)の転換を促します。また坪内は、小説家や評論家であるだけではなく翻訳家でもあり*3、日本で初めてシェイクスピアを全訳しています。そこから、異なる言語を翻訳するだけでなく、異なる思想の違いにも敏感だったのかもしれません。

絵画のリアリズムは洋画によってもたらされます。それ以前に君臨していた最大の画派は狩野派です。狩野派はまず幕府の御用絵師であり、一門を率いて集団で制作し、先祖の手本や筆法を忠実に継承するので、結果的に絵は伝統的コードに基づいたものになります。ただしここで、一つには西洋でも王侯貴族のために絵を書いたり曲を弾いたりしていますし、もう一つは、同じ狩野派でも前期と後期では微妙な差異が見られます。パトロン江戸幕府が崩壊すると、狩野派も終焉を迎えます。狩野派絵師の家に生まれた狩野芳崖は、近代日本画の最初の画家になります。

日本における「想像と装飾の美」

そして、日本の近代洋画の最初の画家に、『鮭』を描いた高橋由一がいます。その頃の大家は他では黒田清輝がいて、(時代を下って大正時代に入ってしまいますが)ここではその弟子筋の岸田劉生を取り上げてみます*4。岸田は自らの娘の「麗子」をモチーフに作品を描いており、それが有名だと思いますが、随筆も多く書いています。

その中に『想像と装飾の美』という文章があります。そこで、日本画は(絵の具が油絵ほど)写実に向いていないとか、日本画家は油絵画家に転向した方が良いのではないか、という風にかなり率直に書いています。しかしまた、写実が一般的ではあるが、写実より装飾の方が、美術においてより根本的な美である、と岸田は考えます。そして日本画の領域において、「想像と装飾の美」が「特殊の個性」によって生かされていく方向を考えています。

もちろん、これを直接現在のアニメ絵・萌え絵に適用したら、「アニメの起源は絵巻物」のように相当飛躍がありますが、少なくとも西洋文化と日本文化の違いという観点は昔からあって、現代人が考える発想(の原型)は既にあったのではないかとは言えます。更にもう少し紹介しておきますと、九鬼周造の『いきの構造』*5というのがあって、「粋」という時代文化に特有の現象を構造的に分析している点で、「萌え理論」の遠い起源にあると個人的に思っていますし、参考にしています。「いきの構造」についてはまた別の機会に書きます。

(続く)

*1:当世書生気質』では戯作を引きずり、実践は必ずしも上手く行かなかったが

*2:ただし坪内の言うリアリズムは人物の心理的リアリズムを重視していた

*3:二葉亭四迷も翻訳をしている

*4:ちなみに、黒田が「女の顔」、岸田が「美術上の婦人」という文章を描いており、もちろんそれ以前に浮世絵に美人画があるわけだが、婦人画へのこだわりは昔からあるようだ

*5:これは昭和の時代まで下るが、岡倉天心との因縁や、先の記事で挙げた和辻との交流など、日本文化論に関係がありそうなので挙げた