医療崩壊論壇とサヨク・コミュニケーション

医療崩壊論壇」

レジデント初期研修用資料: 啓蒙的な、サヨク的な

「上から目線」、あるいは、サヨク的な何か。

「何とかしなきゃ」という思いが伝わってきて、読んでてすごく共感できたサイトなんかが、3年もするとなんだか常連のサロン。

要するに「医療の崩壊」とか、「国民の皆さんはもっと自覚を」みたいな訴えをしている多くの医師サイトからなんとなく感じたこと。

医療崩壊論壇」が、上から目線になりつつあり、サヨク的な閉鎖性を持っている、という指摘。medtoolz氏は厳しい自己批判的な視線を持っていて、とても鋭い内部批判になっています。もちろん、私の立場では具体的な医療問題を語れないので、ここでは言論のあり方だけ問題にします。

医療崩壊「論壇」の面々が、上から目線を獲得しつつある。
システム的な歪みが存在するとしても、患者の立場では「留保無き生の肯定」を求めるしかないですね。第三者の統計的視点で、「妻が産婦人科にかかれず死んだのは仕方ない」とは言えないから。報道の仕方は問題だと思いますけど。
(sirouto)

@sirouto 何となくなんですが、その医師個人が報道に対して怒るのはOKであっても、医師の経験とか事情なんかを持ち出して、「あれはしかたがないのだ。みんなが勉強してそれを納得すべきだ」なんて啓蒙をはじめるのが雰囲気悪くするんだと思うんですよね
(medtoolz)

「留保無き生の肯定」を求めるだけでは、構造的問題が解決しない。だから、被害者感情的な実存は一旦棚上げにして、全体のシステム的な視点で考えようと。しかし、いつの間にか、知識の落差を利用して、自己語り(実存)にスライドしてしまうと、現場を知らない素人の共感は失われるでしょう。
(sirouto)

上はTwitterでの会話。二人の立場が異なっているので、微妙に噛み合っていません。すなわち、medtoolz氏が実存的な語り口と共感の問題を考えるのに対して、(「構造問題を語るとか、世間の自覚を促すとか、そんな「人の言葉」を語ってはいけない。」とまで仰るけれど)私はそれを棚上げして構造的に語るのは構わないのではないか、むしろそれでいいと考えています。

つまり、medtoolz氏は個人の立場に留まって語れというのに対して、私は構造的な立場から語れという風に対照的です。ただし、私は構造的問題を語る目的は、システムの改善であって、全員がその問題意識を共有することはできないし、それで構わないとも考えています。だから両者の共通する論点は、旧来の左翼的な回路が持つ閉塞感です。

サヨク・コミュニケーション

id:yukihonda氏のブログで私(ともう一人)のコメントを消された事件が以前ありました。yukihonda氏がある団体を応援しているので、それに批判的なある人のコメントと、それを擁護する私のコメントを消したという出来事です。これはまあ当のブログが凍結してしまったので、深くは掘り下げませんが、大袈裟にいえば、閉鎖・閉塞性は感じました。といっても、自分の立場に置き換えれば、迷惑な存在だろうとは思います。だから、yukihonda氏への要求水準(議論の公平性)が普通のブロガーより高かった、というのはあります。

もちろん、「ウヨク・コミュニケーション」なら良いと考えているわけでは決してありません。むしろ両者は同じ穴のムジナで、「外部の想定敵への反発によって団結する」というベタな方法は、(とりわけネットのような軽薄な場所では)サヨクもウヨクも共有しています。つまり、どちらも否定を分有する共同体です。

それでは、一体何を言いたいのか。それは、「<これ>が正しいから皆が従え」というのは大衆レベルでは、左右関係なく陳腐化した振る舞いになっているだろう、ということです。全体を統一的に見るイデオロギー的な視点は既に衰退している。だから、理想的共同体への同一化ではなくて、むしろそれがありえないという、疎外が自由の条件になっていると考えます。つまり、みながバラバラの言語ゲームに属しているというのが、コミュニケーションの前提になっています。

しかし、みなバラバラのコミュニケーションをどう収束させるかといえば、中間共同体が衰退しているので、個人からいきなり(法律などを含めた)国家のレベルに飛んでしまいます。だから、よく言われる右傾化というものの実体は、単に今まで以上に自由主義・市場主義・個人主義が進んでいて、そこで起こる問題の解決を国家レベルに投げている、という話だと考えています。しかし、原理的に規則の明示化に限度はないので、「○○条例」のような細かい規制が、際限なく増殖していきます。