努力が報われる社会のありえなさ

努力・労働・消費

なぜ努力が報われる社会にならないのか。それは、われわれ社会の成員が、努力を評価するシステムを採用していないからだろう。日本社会は現在、資本主義システムだ。市場の価値は需要と供給で決まる。だから、労働者の努力は、直接評価の対象にはならない。需要がある商品を供給することを通じてしか、努力は評価されない。成果主義という人事報酬システムがあるが、これも労働者の立場から努力を評価しているのではなく、あくまで労働を買う立場から成果を評価している。

だからもし、努力が報われる社会にしたいのであれば、労働の努力に対する評価を、消費の欲望に優先させればよい。だがここで、「努力が報われる社会」がありえないし、その社会はそもそも素晴らしい社会なのか、という根本的な疑問が沸いてきてしまう。どういうことか。

具体的にイメージしてみよう。例えば最近は食品にカロリー表示がされていて、ダイエットしている消費者は、値段や味だけではなくカロリーも評価して買うだろう。そんな風に努力も「50努」とか表示して、高かったり不味かったりしても、それを買うようにすれば、努力が還元されるようになる*1。しかし、誰がそんなことを望んでするだろうか。消費者は欲しいものが欲しいのだ。

われわれは労働者の立場のときには、努力が認められないといって嘆くが、消費者の立場のときには、努力を評価の対象にすることはまずない。だから努力が報われる社会は実現しない*2。実現しているのは、努力ではなく結果しか評価しないのに、常に努力不足を指摘するため、努力する振りが常態化している職場だろう。

*1:もちろん、これは大雑把なたとえ話で、実際に努力を数値化したり正確に労働者に還元したりするシステムを成立させるのは困難だろう

*2:ただし、それに関わらず再分配は実現しているし、また必要だと考える