エロゲのモラリストとマゾヒスト

ロリコンファル - なぜエロゲの良い子ヒロインは淫乱マゾヒストなのか

非常に面白いなと思うのは、秋華さんの描くエロゲヒロインの多くは、エロゲヒロインのスタンダード、つまり、みんな”良い子”なんですが、ただの良い子ではなく、良い子であるがゆえに、性の快楽に堕ちて、淫乱なセックス狂となるのですね。この辺の繋がりの描写が、実に見事なんですよ。良い子であればこそ、最も淫蕩な変態性欲者になれるのだというこの逆説。かのフロイトとかも述べてますね。

それは、倒錯の中でも父性的秩序に向かうものが最も倒錯的である、という逆説的な構造のことですね。エロゲやエロマンガにおける真面目キャラは、肉体的な快楽に抗えない、真面目な姿との落差がある、といった描かれ方をよくされますが、そういうことではありませんし、普段我慢した性欲が溜まっている、ということとも異なっています。そうではなくて、真面目である、公的な秩序に従っている、という抑圧が、そのまま性的倒錯に裏返るところに、ダイナミックなエロスがあるのです。どういうことでしょうか。

エロゲにおける倒錯者は、たいてい誘惑者として登場します。現代エロゲは処女性が最重要なので、プレイヤーが序盤に退屈しないための、Hシーンを供給する脇役のポジションに、割り振られることが多いです。学園物であれば教師・保険医あたりが典型的ですし、館ものなら年長のメイド辺りでしょうが、ただし例外的に人妻ものは全員がそういう立場であることができます。彼女たちは、既に性的快楽を知り尽くしており、主人公をその快楽に誘惑する存在として描かれます。

しかし、ここで言うのは、最初から性的倒錯者として現れるのではなく、物語の過程で目覚めていくヒロインのことです。そのようなキャラはありがちかといえば、その過程を説得力を持って描くのは難しく、実は思ったほどはいません。たいていは、先に言ったように、肉体的快楽の問題になってしまいます。それではヒロインが単なる淫乱になってしまい面白くないので、さすがに工夫しようとしますが、安直な超越化に頼りがちです。超越化とは、主人公の超人的な力とか、魔法の媚薬を使うだとか、そういう解決の方法です。

そうではなくて、あくまでヒロインが主体的に変化するところに意味があります。しかも、陵辱系エロゲなら、純愛を神秘化するタイプの超越化に、頼りきることもできない。だから難しいのです。典型的な倒錯者間の関係にSMがありますが、SMにおけるSはご主人様・女王様と呼称されるものの、その主人の立場というのは、実際は奴隷の奴隷に過ぎません。奴隷の欲望を実現するための偶像に相当します。従って、あくまでヒロインの内在的な欲望に沿いながら、いかにして主体を倫理から倒錯へとスライドさせるかがポイントになります。

倒錯の関係においては、公的領域と私的領域の区分の侵犯によって、主人公とヒロインは享楽を得ています。つまり例えば、公衆の面前にいるヒロインにはローターが仕込まれており、主人公がリモコンで操作する、といったシチュエーションのことです。だからこういうタイプの話は、性的関係の露見という結末を迎える形が、自然と多いでしょう。公的領域と私的領域の区分が消失するというのは、モラリストとマゾヒストの区分が消失することでもあるのです。そこまで行けば、二人の関係自体が破滅してしまいますが、この自己破壊的な死の欲動は、もともと欲望に潜在していたものなのです。