顔で選ぶ非モテに明日はない

「僕は人を容姿で判断してる」

忌憚の無い意見を言わせて貰うなら、僕は人を顔とか容姿で異性を選んでしまうと思う。情けない話だけど、人の視覚に訴える容姿という要素は僕の中では大きい。そこを無視して人を選ぶことは難しいだろう。

http://d.hatena.ne.jp/hebomegane/20070718/1184709164

美人を好むのは自然だが、非モテはその自然さに甘んじていては、激しい恋愛競争で生き残れない。ではどうすればいいのか。説明しよう。

「男は顔についてくる」

ホリエモンの「女は金についてくる」は、「男は顔についてくる」と言い換えられるかもしれない。あるいは「男は体についてくる」。「美人な方が良い」というのは、「年収が高い方が良い」と同じようにそれ自体は身も蓋もない話だ。それだけが判断基準の全てではないとしても、(特に男が女を)「見た目で選ぶ」というのはあまりにありふれている光景だ。そんなことは誰でも分かる。ここで言いたいのはそういう常識的なことではない。

「ブスは三日で慣れる」

「美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れる。」というのがある。それだけで美人よりブスを取ることはないだろうが、これは「平安時代はお多福が美人だった」に比べれば実用的な命題だ。露骨な表現ではあるが、好意的に解釈すれば、結婚生活のように時間的に長期に渡る場合、容姿よりも他の要素(性格とか生活力とか…)が重要になるということを言わんとしているのだろう。これも非常によく聞く主張だ。

「あばたもえくぼ」

性格良い 性格悪い
容姿良い A B
容姿悪い C D
  • 1 : B→A
    • 容姿が良いと性格が良く見える
  • 2 : C→A
    • 性格が良いと容姿が良く見える
  • 3 : B→D
    • 性格が悪いと容姿が悪く見える
  • 4 : C→D
    • 容姿が悪いと性格が悪く見える

また性格も容姿も努力しだいで変えられる、という主張もよく見る。もう少し洗練された見解としては、性格と容姿の相関関係を指摘するものもある。上表のAがDより良いのはすぐ分かる。問題はBとCだ。性格と容姿の相互影響のタイプを1〜4に整理した。このうち1の移動は、色々な因果関係がありうる。「美人は怒った顔も可愛い」という主観的な要因もあれば、「美人は他人が肯定するので性格も自然と良くなる」という客観的な要因もあるだろう。2は「あばたもえくぼ」。3は「いくら美人でも願い下げ」。4は「ブスだとブスッとして見える」位のことか。これらもまあよく聞くことを整理しただけだ。

「顔で選ぶ非モテに明日はない」

ここまでよくある主張をまとめておいたのは、これから述べることと区別するためだ。いよいよ表題に迫ろう。恋愛格差社会の絶望的な状況下で、非モテが明日を生きられるとしたら、「顔で選ばない」というのは、有力な選択肢ではないか。クーラーの温度を少し下げると大変電力の節約になるように、容姿の基準を少し下げれば万人単位で恋愛の対象が増えるだろう。しかし急いで注意すれば、これは「相手を選ばない」ことではない。相手を選ぶが顔で選ばない、もっと正確に言うと、顔の好みで判断を急がない、ということである。これは、「顔ではなく心の美しさを見なければいけない」というような道徳的お説教ではなくて、もっと切実なことである。

「好きになった人が美しい」

しかも、「非モテなんだから、分際をわきまえて、ブスで我慢しろ」「お前は相手を選ぶほど立派なのか」式の説教でもない。では何を言いたいのか。それは、「美人を好きになる」を「好きになった人が美しい」へ反転させる可能性だ。これは先の「あばたもえくぼ」とは微妙に違う。なぜなら、根本的な座標軸を変えてしまうからだ。もしかして、このテーゼに「ナンバーワンよりオンリーワン」のような偽善性を感じているかもしれない。これならまだしも「顔より心が〜」という説教の方が、容姿が悪いのは仕方ないと、現実を踏まえているのではないか。ところがそうではない。

「二人の世界」

マクロからミクロに視座を移すところにポイントがある。「全体で何位」というように、比較はマクロの視点でなされる。比較の対象を欠いた「二人の世界」を構築すればよい。ここで「二人の世界」は、別に「ラブラブな関係」でなくて構わない。なるべく感情が転移する関係が良いが、さしあたり単なる人間関係でも良い。「二人の世界」とはまるで「アダムとイブしかいない世界」のような非現実的な妄想的幻想ではないかと思われるかもしれない。それも違うのだ。

唯物論的条件」

例えば大昔なら、村の外に出たことがない人間はいるだろう。しかし現代では、人に会う機会も多いし、アイドルなどの画像映像はいくらでも収集できる。しかもふつう、収集するのは美人の画像に偏っている。あくまで、そのような唯物論的条件として言っている。また、道徳的説教ではない。異性を選ぶ技術というのは、非モテにとって全く重要ではなくむしろ障害になる、ということを前提にした上での、実利的戦略なのである。

「見ない技術」

「顔より心の美しさ」が「見えないもの(心)を見る」方法だとすれば、ここで述べたのは「見えるもの(顔)を見ない」方法である。人間の認知情報を視覚が多く占める上に、TVやネットなど映像メディアが過剰な現代において、見落としたり見逃したりする「見ない技術」はますます重要になっている。