アニメ・ゲームなどの批評に関する根本的な誤解

難しくないといけないのか

批評飽きた。

小難しいことをちゃんと考えて、作品を観たら面白い意見を言わなければ、とか思って来たんだけど、もう飽きた。

潜在的に凄く多そうな誤解だけれど、別に小難しくなくてはいけないということはない。確かに批評の型はあるけれど、義務だと思って無理に難しくする必要は全くない。少なくとも、意味が分からないジャーゴンは使わない方がいいとは思う。またその裏返しで、みんなが分かりやすい最大公約数的なところに、必ず落とさなければいけないということもない。

ただ「それってやっぱりあれだよね」式にラフに書いてもいいけれど、「アニメは(○○は)こうあって当然」という固定観念からかえって抜け出せないという罠もある。だから、よそ行きの服を着るように、漠然とした「常識」「空気」「お約束」から距離を取るために、多少文体が硬くなることはある。でもそれは言葉が難しいから偉いとかではない。

お金が落ちないといけないのか

祭りで注目されるとコンテンツに落ちる金増えるんだから。ネットで批評やっても誰の得にもなってない。

いや、レビューや広告という形で、やはりお金が落ちる。もちろん、個々の大部分のレビュアーが動かす額は大したことがないだろうけれど、VIPの祭りと同じように書評系全体で見れば、結構動いていると思う。しかし、むしろ商業に取り込まれてしまう方が本当は問題なのかもしれない。「ブロガー試写会」とかは既にあるが、CGM的なマーケティングがもっと浸透していって、ネットの評判が企業の資本力で動いてしまうかもしれない。そのときに、お金が落ちるから偉いとも思わない。

普通だといけないのか

そんでフツーの社会人になってDVDとかグッズをモリモリ買うオタリーマンになる。

「批評は小難しくて一般人とは別の特殊なもの」という固定観念があるのだと思うけれど、実は、感想を含めた批評は、フツーの人が日々している普遍的な行為だと思う。

文明社会の職業は分業化しているから、99.9%以上のほとんど全ての分野において、作り手ではなく受け手に回ることになる。「このラーメンは美味い」「あそこの医者はヤブ」「誰々のカラオケは音痴」といった感想は日々抱いており、他人と意見を交わしていることと思う。フツーの日常なのだ。

別に批評が感想より偉いということはない。しかし、感想は自分にとっては最も自然で違和感がないだろうが、自然であるがゆえに、それ以上自分の枠から出られないという側面がある。特にネットは主張が増幅するので、全肯定の信者(「○○は神」)か、全否定の厨房(「○○は糞」)に二極化しがちである。

初見では先入観によって見落としてしまうような、作品の構造や細部といった別の側面に近づいていくのが、批評なのである。その過程で「批評っぽい」言葉を使うこともあるが、それは手段であって目的ではない。そして、人や金を動かすのが目的ではなくて、自分の考えを動かすのが批評の目的なのだと思う。

参考

  • マリオ研究
    • 普通の言葉を使っているけれど、面白いし批評的だと思う
  • FF8の真実
    • 現代のゲームは大作化・高度化・複雑化しているので、むしろ批評より作品の方が難解になっていることがしばしばある。上記を読むと、難しい…というかドローが無意味で退屈だと感じていた「FF8」が、シンプルな構造を持っていたことが分かる。ただ「ドローを繰り返す必要はない」ということは、単に最初から強調していても良かったと思う。雑誌など宣伝の機会が多かったのだから。そういうことも含めて、複雑で難解だから偉い、ではなくて、むしろ複雑で難解なゲームをシンプルに解体してくれる。